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本物の忍者はこの地から生まれた

万川集海 凡例(ばんせんしゅうかい はんれい)

一、この書を万川集海と名付けることとする。始まりより終わりに至るまで間林精要の綱領を挙記している。

引用しているのは、伊賀・甲賀十一人の忍者が秘する忍術・忍器である。ならびに今の代にある諸流の悪いところを捨て、よいとろを選び取り、また和漢の名将の作った忍術の計策等をあまねく集め、ことにいままで公開されなかったものも、あえて公開する。

義理を顕わし、邪を正しくし、義をないがしろにせず、この術の至極に帰し、序次を乱さないでことごとく著すものである。こうし天下の河水はことごとく大海に流入して、広大なものになるという意をもってこの書を万川集海と名付けた。

それゆえ、他の忍者などが伊賀の名を借りて、かろうじて二言三言程度修得したとしても、伊賀者のようなものにはなれないのである。
その上、万計万功の手熟が多く、これらが大変奥深いことは、世の人の知るところではない。しかし、言葉を簡単にして分かりやすく述べることをあえてしなかったのは、一般の人がたわむれに口にするのを防ぐためである。学ぶ者が、師の口授を受けてじっくりと知識を深めていけば、自ら奥深さは計り知れるものとなるのだ。もし、師の口伝を受けずにこの書を見ても、奥義に達する事は不可能である。

一、この書を正心・将知・陽忍・陰忍・天時・忍器の六篇で構成し、正心を第一とする。正心とはあらゆる事・あらゆる技の本源であるからだ。そもそも忍芸は智謀計策をもって、ある時は塀・石垣などを登り、ある時はくさり、かんぬき、掛鉄、尻差を外すこともあるので、ほとんど盗賊の術に近い。そのため、天道の恐るべきを知らない無道の者が術を修得して悪逆を働いたなら、私がこの書を作述することは結局盗賊の術を教えることにもなりかねないと考え、正心を第一におくものである。

つまり、忠義の道をはじめとし、生死の道理を記して心を正しくするための階梯(かいてい)とするのである。誠と知を尽くすことは他人の嘲笑を招くものとはいえ、志を正しく行うときは大きな助けとなることだろう。しかし、学び始めたばかりの者はこの一篇を糸口として、一日中常に、休み、座り、寝る時も大勇猛の意志を持ち、眼を忠貞の源につけ、長くこの術を習熟させるなら、おのずと悟りを開き正心の意味するところを知ることであろう。この術によく通じていれば、柔弱な人も剛強になり、よこしまな人も忠義を守り、愚者も聡明になれるのである。勇知の義を知れば忍び入れないことなどない。

もし、心の不正な時は、淵源の謀略も成功しない。たとえ謀略をめぐらそうとしても、計画は自然とばれて、敵の耳に入ってしまうものである。武勇があっても剛を成し遂げることはない。それ故、正心を第一とするのである。

一、将知を第二におくこと。
これは、忠勇謀功の域に達した忍者であっても、軍将がその者を用いなければ謀略は成功し難い。謀略がうまくいかないのは忍術の利用価値を理解していないからである。軍将がそれを理解していなければ、狐疑の心が起きて、忍者を敵陣に送り込むべき配慮に欠ける。また、もし忍者を送り込まなければ、敵の秘計などを知ることもできない。

さらに、敵の秘計を知ることができなければ、軍を手分けも謀略も決めることができない。手分け・謀略が決まらないということは、そのまま敗軍の基となるのである。また、もし忍びを使わずに敵の状況を推量して謀計を立て、あるいは手分けなどして備えとするのは、暗夜にやみくもに石を投げるようなもので、謀備が予想に的中することは、まず無いのである。

したがって、東に備えている時は西から攻められて、たちまちひっくり返され、南に備えている時は北から攻められて、慌てうろたえて敗北することがよくあるのだ。他にも、将軍である人が忍びを用いる方法を知らない場合は、たとえ忍者を敵の城営へ侵入させても、外からこれに応じて攻めるための成果が上がらない。成果が上がらない場合には合戦に勝利はないだろうし、あるいは忍者が不慮の死を遂げるであろう。そのため、将知を第二とするのである。将知の下篇には、忍者を我が陣に入れない軍法を記して、その術を軍将に知らしめ、敵の忍者を我が陣へ入れない方法を教えて、その上で忍者を入れる術を著すものである。

一、陽忍を陰忍の前に置くこと。陽は始まり、陰は終わるという理をもって、このようにするのである。才智ある人がその術を聞いても、平素の修練がなければ陽忍者にはなることができない。この術を修得する意志のある人は平生怠けることなく訓練すべきである。

一、陽忍の下篇に視・観・察の檐猿(のきざる)の術を記すのは、忍者は敵の様子を必ず見聞きする職だからである。学ぶ者は忍びの事の外のこととを思い、これをおろそかにしてはいけない。
陰忍の下篇に忍び・夜討ち・強盗等のことを記す。これもまた、忍の事では無いと思って疎かにしてはならない。夜討ちとは忍びの休用のものである。それ故、忍術を知らない夜討ちは夜討ちの理にうとく、夜討ちを知らない忍者は忍者の理に至らないわけである。

また、捕者のことはこの道の本意ではないといっても、近代は忍者の所作のようになったので、昔からの作法の概略を訳すものである。この術の本意ではない。何故かといえば忍者の術ではなく雑色の仕事だからである。

一、天時天文を第五に置くのは、天の時は地の利におよばず、地の利は人の和におよばないという先賢の教えに基づいてのことである。
ただ、天時の篇の中に忍術に重要なことが多くあり、これをおろそかにしてはならない。また、強いてこればかりを重要視することもないように。

一、忍器は陰忍の足がかりであるが、器物製作の伝授であって忍びの理ではないので第六に記す。
忍器は自分で為し覚えてその善し悪しを試すべきである。もし、試していないなら用いてはならない。できるだけ一器をもって多様に使えるように、単純に製作することに専念するのがよいのである。その製法は巻の題の下に詳しく述べる。

万川集海 序 凡例 終

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忍者の里 伊賀(三重県伊賀市・名張市)
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