『萬川集海』の著者、三代上忍の一人である藤林長門守の孫
【写真 藤林保武の墓】
『萬川集海』の著者藤林佐武次保武は三代上忍の一人である藤林長門守の孫にあたる。
『冨治林家由緒家』によると、冨治林保武は東湯舟から上野万町に移り墓所が西念寺にある。別名は伝五郎、又の名を保道あるいは保高と云う。
元禄14年(1701)に正式に伊賀者に召された。しかし高久公の時代に藤堂長門という代官がおられたので、藤林の姓を遠慮して、冨治林と改めたと伝わる。
長門守の孫の第4世冨治林正直は『三国地志』の編纂で藤堂元甫に命じられ伊賀編を担当している。
冨治林正直の遺言により伊賀者稲増次郎左エ門に『萬川集海』6冊と『伊賀軍法之書』を送ると言う目録があり、さらに第5世冨治林直は稲増次郎左衛門に忍術免許皆伝を許している『稲増家由緒書』。