忍者は火術を得意としていた。鉄砲と共に種子島に火薬が伝来する以前に、すでに甲賀では大陸からの渡来人が火薬を製造していたといわれている。
伊賀と甲賀は、もぐさ、ショウノウ、馬ふんなどの火薬の原料が手に入りやすく、火薬の知識が豊富な渡来人も多かったため、火術が飛躍的に発達した。忍者は、戦国時代まで輸入に頼っていた火薬の原料硝石も、神社の縁の下の古い土などから、独自に採取することができた。
忍者は鉄砲も得意としていた。忍者が戦国大名に重用されていたのは、当時の最新兵器であった、火薬と鉄砲の専門知識を持っていたからでもある。
織田信長を鉄砲で狙撃しようとして処刑されたのも、甲賀や伊賀の鉄砲の名手だった。江戸時代になると、甲賀流砲術は「自知流」、伊賀流砲術は「威風流」「柘植流」として伝えられ、江戸時代の中期以降、忍者は鉄砲部隊として活躍した。