阿波館

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【写真 阿波館】

寛永13年の奥書がある、『伊賀付差出帳』という文書がある。この文書は藤堂藩初期の伊賀付分限帳である。その末尾に「忍衆二十人名寄」がある。

これは伊賀上野城代と伊賀奉行の連署にて江戸家老に差しだしたものである。藤堂藩の最初の忍者名簿である。この筆頭に、阿波庄右衛門が記される。

藤堂髙虎が伊賀入国して、伊賀の土豪より、大坂夏の陣の戦争要員として50名が間諜として選ばれた。元和偃武以降は、伊賀者として、20名が選ばれたようだ。

庄右衛門は切り米「三拾石十人扶持」、江戸家老藤堂四郎右衛門が取り次ぎによる召し抱えだ。他の伊賀者は伊賀奉行の召し抱えだから、特別の事情があったのだろう。

阿波氏の城跡は永田の丘陵上にあるが、須原に土塁に囲まれた東西60m南北70mの居館を有し、地元では「堀」と呼ばれ西側は服部川に面している。

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曽我一族

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【写真 曽我五郎左衛門の陣羽織】

下阿波には代々藤堂藩に伊賀者として仕えていた阿波庄右衛門、植田覚左衛門、曽我五郎兵衛の3人の伊賀者の名が、『宗国史』や『伊賀付差出帳』に記される。

曽我五郎兵衛は、慶長19年(1614)にも記されている。大坂夏の陣の戦闘要員であっただろう。

3人の伊賀者うち、五郎兵衛だけが、上野城下の忍町に、伊賀者屋敷の一人に名を連ねている。

曽我家はその後、200石取として、藤堂藩軍師に出世しているのも特筆される。曽我一族の菩提寺の神幢寺(じんのどうじ)は天正伊賀乱にて焼失したが、その後、修験者林昌院が再興。侍墓ともいわれる。

同寺の墓地には烏八臼(うはっきゅう)と俗称される字を頭に入れた珍しい石碑がある。これは救縛の故事になぞらえた成仏保障の呪文。

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山田ノ八右衛門

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【写真 平田にある風景と鬼の燈籠】

『萬川集海』に登場する忍術名人の忍者。姓は瀬登。『萬川集海(隠忍篇)』に、陰陽両術を使った例としてあげられる。

八右衛門がある男と敢国神社の祭礼の日に男の腰の刀を盗み取るという賭けをした。男は用心し八右衛門を見張っていたが、八右衛門は岩上に腰をかけ一休みしていたので安心し雑踏の中を参拝を済ませた。

しかし、帯刀の中身はすでに抜き取られていた。八右衛門は姥に変装し賽銭箱の陰から男の刀を抜き取っていた。岩上に休息していたのは替え玉で、八右衛門は変装の名人でもあった。この術を双忍の術と呼ぶ。

大山田村出自の伊賀者には、長井又兵衛と田中安丞が藤堂藩に仕えており、彼等は鳥目付としても活躍する。

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山内左右衛門尉

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【写真 山内家碑と渡来系石像】

天正9年(1581)、天正伊賀乱の際に、伊賀北部の山内左衛門尉を始め、武内氏、福味氏、川合氏、福森氏、藤林氏ら伊賀衆が雨請山に立籠もった。

山内氏の城は北側中腹にあって、四方の土塁と西と南に空堀がある。地元の人たちは、ここを猫屋敷と呼んでいる。これは、戦闘の際の山城に対して、平素の麓の館や城を根小屋と呼んだのが訛ったものだろう。

『伊乱記』に、蒲生氏郷軍は鉄砲や矢を飛ばし一度に攻め込むが伊賀勢もこれに忍者得意のゲリラ戦法で応戦した。氏郷軍には望月猪太郎という屈強の大男がいて伊賀軍を苦しめたが山内左右衛門尉が討取った。

しかし多勢に無勢で徐々に伊賀側が不利となり夕方頃には落城した。

山内氏は永禄11年(1568)に近江元守護の六角承禎が伊賀に逃れた時と天正元年(1573)石部城に籠城した時に承禎より「感状」を受けている。雨請山登山入口に、山内家石碑と渡来系の石像2体がある。

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彦根藩伊賀歩行衆

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【写真 小堀勝之進由緒書】

彦根城博物館所蔵の「伊賀歩行由緒書」によれいば、小堀勝之進という彦根藩伊賀歩行衆がいた。彼勝之進は、伊賀歩行衆の筆頭に見える。40俵3人扶持。

勝之進は元祖は小堀勘六、小堀勘左衛門の倅で生国は伊州阿拝郡千貝村の侍とある。千貝村は旧阿山町千貝で柘植村の近い。

天正10年(1582)に権現様(徳川家康)が堺浦に着き御見物、御宿泊。その後、大和で一揆に遭う。伊賀に入り宿泊。その際に伊賀の侍が忍術火術を熟得していたので護衛を頼む。勢州白子まで案内し尾州鳴海で家康の配下になった。

そして、大坂の陣でも活躍した。正保3年(1646)からは、勘介が貞享2年(1685)まで歩行衆として勤め、2代目勘左衛門が跡を継ぐとある。

伊賀歩行の職務は江戸時代太平の世に於いては、朝鮮人通信使が来日した際に世話役、参勤交代で江戸詰役、大和一揆の探索を命じられた。忍者本来の探索、警備の仕事は藤堂藩と同じである。

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音羽の城戸

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【写真 西音寺役行者像】

『萬川集海』に登場する11人の忍術名人の忍者である。『伊乱記』によると、鉄砲が得意で、本名は城戸弥兵衛。

天正伊賀乱がほぼ終結し織田信長が伊賀一之宮(敢国神社)の辺りで休息している時に、土橋村の原田杢と印代(いじろ)村の印代判官と音羽村の城戸の3人が密かに忍び寄り、森から大鉄砲にて信長を狙うが、信長は運が強く3人とも打ち損じた。

家来たちはすぐに追ったが、飛ぶ鳥のように逃げ去ったとある。

弥兵衛の墓がある西音寺は、天台真盛宗の寺で、寺内には鎌倉末期の石造五輪塔が完全な形で残り、弥兵衛が生前崇敬していたと伝わる役行者像がある。地元ではこの役行者は、忍者の祖神として崇められていたという。

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木津家

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【写真 木津家遠景(玉瀧)】

玉瀧にある伊賀で残る最大の土豪屋敷。玉瀧は玉瀧庄として東大寺領荘園であった。しかしながら、争いが絶えなかった。

『東大寺文書』には、興福寺や北接する近江信楽庄と争いがあったとある。南北朝時代には、守護仁木義直・悪党服部持法が東大寺より玉瀧庄を押領し、東大寺が訴えるが実効はなかった。

木津家はその流れを引くと考えられる。一説に木津川下流の木津一族が戦国時代、上流伊賀に一族の勢力を拡大したともいう。

いずれにせよ、玉瀧の木津家が本家であろう。木津家には、天文13年(1544)の宮座文書がある。敢国神社の次第に、客人として伊賀有力土豪「喰代ももち殿」の名等が見える。

江戸時代には、藤堂藩伊賀者として、『高山公実録』や城下町絵図に、木津伊兵衛の名がみえる。寛永13年の分限帳に、伊兵衛以外に伊之助がみえる。伊兵衛の一族だろう。

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桜峠

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【写真 了源上人の碑】

桜峠は伊賀市丸柱と甲賀市信楽町神山の境に位置する。七里峠ともいう。桜峠の由来であるが、桜峠はあたかも桜が咲く美しい地と想像してしまう。事実、桜峠には桜が植えられいる。

しかし、建武2年(1335)、親鸞の弟子、了源上人が浄土真宗を布教するために伊賀に来た。京都に帰る途中、桜峠で布教の反対派の凶刃に倒れた。

その際に、雪の積もる峠は、了源上人の鮮血に染まり、あたかも桜が散る様に似たので、桜峠と呼ぶようになったという。桜峠のすぐ手前が神山だ。

『石川忠総留書』に「小川半リ 向山一リ 丸柱一リ 石川半リ 河合一リ半 柘植二リ (以下略)」。

向山は、神山のこと。忍術秘伝書『萬川集海』の十一人の忍術名人の二人、甲山ノ太郎四郎、同太郎左衛門が挙げられる。

甲山も神山。二人は甲賀神山の出自と考えたい。他の忍術書には甲賀の太郎四郎、同太郎左衛門と記される。

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石川五右衛門

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【写真 五右衛門塚】

「絶景かな、絶景かな。春の眺めは値千金・・」。天下の大泥棒石川五右衛門の台詞。

『賊禁秘誠談』(東武残光)に、五右衛門は百地三太夫の弟子とある。しかし、三太夫に破門される。

文吾と名を改め盗賊団首領となるが捕らえられ、文禄3年(1594)、五右衛門と一族が、京都三條の河川敷で公開釜煎りの極刑。

石川河合川左岸、通称金山に「五右衛門塚」がある。その一角の南無阿弥陀仏と刻まれた小さな石碑が五右衛門の供養碑だと古老に語り継がれる。

五右衛門が石川出自だということは知られてない。五右衛門ごときの悪逆の盗賊を当地出身者とすることは、村の恥だからだと公にしていない。

しかし、その霊は祀ってやりたいという想いが伝説を生む。生誕地説についてはいくつかあるが、北伊賀の忍者は地名を苗字のごとく使っていた。大泥棒にはなれたのは、忍術を盗術に応用したからこそだろう。

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雨乞山

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【写真 山頂にある天正遺跡碑】

下友田にある雨乞山(標高268m)。430年前、ここで信長勢と伊賀勢の戦いが繰り広げられた。天正伊賀の乱である。

『伊乱記』に天正9年(1581)、信長の武将蒲生氏郷が玉瀧口より7千余りの兵を率いて進攻。槇山、玉瀧、内保、湯舟、友田の土豪が雨請山に集まる。

氏郷は鉄砲を撃ち矢を飛ばした後一気に攻めるが伊賀勢も応戦。山内左衞門等が籠もるが、所詮は多勢に無勢、次第に伊賀勢は不利になり、夕陽が落ちる頃には落城した。

この戦について、その地に伝わる古老から聞き取った話を伝え聞いた。伊賀勢は奇策を使ったという。

奇策とは裸の女をいきなり敵の前に走らせ、敵がその女に見とれている間に反撃したとか。急な登坂に竹皮を敷き詰めその上に油を流し登れないようにしたという。

まさしく忍者的ゲリラ戦術だ。山頂に天正伊賀の乱のことを伝える石碑と祠がひっそりと佇む。

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稲増治郎左衛門

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【写真 稲増氏館跡 非公開】

稲増一族は北伊賀下友田で活躍した土豪であり、『伊乱記』にも雨請山の戦いで名が見られる。伊賀流火術に優れ、藤堂藩に召し抱えられた伊賀者であった。

『稲増家文書』には、治郎左衛門が藤林長門守冨治林正直の遺言により『萬川集海』六冊と『伊賀軍法之書』と譲り受け、冨治林直より忍術免許皆伝を受けている。つまり、伊賀者の忍術指南役であった。

『稲増家由緒書』によると、寛政5年(1793)には、鳥取に異国船が漂着の際の担当役となる。文化10年(1831)には、藤堂藩の伊賀者忍術指南役となる。

伊賀町川東の伊賀者であった澤村家所蔵のペリー来航の際に作成した狼煙筒には、東組の伊賀者5人の1人として列記され、稲増次郎兵衛の名が列記されている。

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手力神社

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天手力雄命(アメノテヂカラオノミコト)を御祭神とする藤林長門守一族の氏神。藤林長門森は、火術・火筒・狼煙などの火の忍術を得意としていたことから、毎年10月17日に伊賀で一番遅い花火祭りがおこなわれています。

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藤林長門守

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【写真 藤林長門守の墓所(中央)】

三大上忍の一人と呼ばれ、北伊賀衆の頭領であった。

『冨治林家由緒書』によると、長門守の高祖は源頼朝の重臣泉親衡で、信州戸隠山に挙兵するが、健保元年(1213)に北条氏に敗れ湯船に居城を築いたと伝わる。

また、藤林家は六角義賢(承禎)と深く関係しており、『萬川集海』には承禎が近江沢山城攻めの際に伊賀衆の助力を頼み、楯岡道順以下11人の忍びが落城させた功績が記されている。

戒名が似ていることから喰代の百地丹波と東湯舟の藤林長門守が同一人物説があるがそれは小説の世界である。

長門守が上忍といわれる理由は、子孫保武が『萬川集海』を編纂したことと道順以下11人の優秀な忍者を使っていたからであろう。

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春日神社(川東)

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【写真 相撲絵馬】

祭神は武甕槌武命など六柱。一般に相撲、勝負の神。古来は壬生野周辺の伊賀衆の守護神であった。天正伊賀乱では兵火を免れたのは春日大社神職や興福寺僧が滝川一益に訴え聞き入られたと伝わる。

また春日神社には長屋座という宮座制度があり、今なお、澤村家など壬生野一円の豪士だけが祭祠権を維持している。長屋座には伊賀者や無足人の名が多く見られる。

『春日神社申祭由来書』には、神護景雲3年(769)に常陸の国鹿島社より大和春日神社への勧請途中に川東に寄りその由縁で創建。

なお、春日神社には、雨乞祈願成就で奉納された、素晴らしい絵馬が13枚飾られる。勝負の神ゆえに、相撲の絵馬が多くあるが、他にも、荒木又右衛門、鍵屋の辻の決闘絵馬などもある。

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柘植一族

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【写真 柘植一族の墓】

柘植一族は伊賀北部の土豪。『満済准后日記』に正長2年(1429)「国人柘植三方」とあり平宗清を先祖とする。

墓所は西光寺にあったが天正伊賀乱で焼失。しかし柘植家が再建する。

柘植姓は『伊賀者大由緒記』に、天正10年(1582)の本能寺の変の際に、徳川家康の伊賀越えの際に協力した土豪としても名があがっている。藤堂藩伊賀者にも散見している。

『宗国史』の功臣年表には寛永九(1632)年に柘植勘丞が十五石三口。寛永13年(1636)の『伊賀付差出帳』に柘植勘之丞、切米十五石三人で加納藤左右衛門が取次。

柘植家の柘植流砲術において、火術を得意とする藤林氏や稲増氏と接触があったと伝わる。西光寺には、柘植一族の墓九基がある。

 

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柏野城跡

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第二次天正伊賀の乱の際に北東部の伊賀衆が立てこもり、丹羽長秀・滝川一益が率いる織田勢に抗戦した城。

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竹島三太夫

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【写真 竹島館址】

『宗国史』に竹島三太夫は、寛永九年(1632)伊賀者として十五石三人扶持と記される。藤堂藩伊賀者澤村甚三朗と共に伊勢一揆を探索したり、異国船探索の記録が残る。

三太夫は澤村家所蔵の狼煙筒に、稲増次郎兵衛、重福彦次郎、和田芬助、澤村甚三朗と並び東組一員として列記されている。

竹島家は平宗清を祖とする日置一族と伝わる。日置弾正は日置流弓術の祖である事でも有名だ。

『伊乱記』には、天正伊賀乱で竹島右衛門景雄が壬生野城で近郷土豪と共に戦うとある。『竹島家過去帳』や『竹島家過去帳』に湖岸栄江大姉とあり松尾芭蕉の姉が嫁ぐとある。

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壬生野城跡

壬生野城跡 写真

第二次天正伊賀の乱の際に近隣の伊賀衆が立てこもり、織田勢と戦った城。この戦いで命を落とした伊賀衆の墓石群が残されています。

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天正伊賀の乱

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福地一族

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【写真 福地城】

伊賀で最高峰である霊山西北の麓、柘植山出に位置する。規模は東西220m南北170m。石垣、土塁、空堀がよく残る大規模な城で、柘植城とも呼ばれた。

平宗清を祖とする福地氏は『満済准后日記』に、正長2年(1429)「国人柘植三方、日置、北村、福地」と名がある。

『伊水温故』に、「山城なり境地よし福地伊予当国に逆して信長に心を移し天正9年(1581)討入案内者となると記される。その前年、「定成千石の熟田を所有す国第一の福人成り」とある。

「伊賀惣国一揆」においても、重要な役割を担っていたと考えられる。翌年天正10年、本能寺の変で信長が倒されたため、福地氏は駿府に落ち延びた。

松尾芭蕉は福地一族であったため、柘植より上野に移った説がある。現在福地城跡は芭蕉公園として、親しまれている。

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野村ノ大炊孫太夫

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【写真 横光公園】

『萬川集海』に登場する11人の忍術名人で、最初にあがる忍者。記録されている活躍は、孫太夫がある家に忍び込んだ際に、気づいた主人に槍で突かれた。

しかし、床下にいた孫太夫は、じっと耐えて、あえて、相手に聞こえるように「家の者が起きたらしいので引き上げよう。」と言った。さらには、「うん、そうしょう」と、声色を変えて話す。

主人は他にも仲間がいると思ってしまい、あわてて外へ飛び出した。そして、この隙に、逆に家の奥に忍び込んだとある。

野村の位置は上柘植西にあり、中央を倉部川が南部を柘植川が西に流れている。集落は村南部を横断する大和街道に沿ってある。なお、野村の地は、文豪横光利一が幼少の頃住んでいた地でも有名である。

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