百地丹波守の屋敷が数か所にあります

ももじたんばのかみのやしきがすうかしょにあります

 伊賀の豪族といえば、北部は服部氏、南部は大江氏が栄えていました。百地氏は大江氏の一支族です。百地氏の系図や史料から推察すると、室町時代に大江氏の一支族が名張の「モモジ」を拠点とし、地名から百地氏を称したと考えられます。代々、百地丹波守を名乗り、大和の興福寺(奈良市)と結びつきながら、土豪として成長したものと考えられます。百地丹波の城は、伊賀竜口(三重県名張市竜口)と大和竜口(奈良県室生村竜口)との境界線の通称「城山(しろやま)」にあったと言われ、いずれの場所にも子孫がいます。さらに、北伊賀の喰代(三重県上野市喰代)にも百地砦跡が残っています。喰代に進出した百地氏は、服部氏と結びついて勢力を伸ばしていきました。
 百地氏の家紋は七曜星(しちようぼし)・二枚(にまい)矢(や)羽根(ばね)で、伊賀服部氏の矢羽根と似ていることから、結びつきの深さがうかがえます。喰代の百地氏は、藤堂高虎の馬まわりを勤めるなど、江戸時代にも有力土豪として地位を保ち、藤林氏とも縁を結んでいます。 百地三太夫は、江戸初期の徳川四代将軍・家綱の時代に書かれた長編小説「賊禁秘(ぞくきんひ)誠談(せいだん)」や11代将軍・家斉(いえなり)時代の「絵本(えほん)太閤記(たいこうき)」に登場します。三太夫は創作上の人物かというと、そうとも言えません。上野市予野の郷土史家、故・吉住完元氏の説によりますと、1571年に現在の名張市中村の地で、父・清(せい)右衛門(えもん)と母・クレハとの間に生まれた実在の人物と言います。六歳の頃に叔父の百地丹波を頼って竜口に住んでいたそうです。伊賀竜口の百地家は、三太夫の異母(いぼ)弟(てい)・四太夫が祖先と伝えられています。