

忍者年表
671年
藤原千方が四鬼を用いて朝廷に謀反を起こす
藤原千方が、金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼という四人の特殊能力をもつ鬼を使い朝廷に謀叛を起こした。伊賀に征伐に来た紀朝雄に討たれる。この四鬼が伊賀流忍術の初めであり、これによって伊賀には忍びの術が武士の間に勃興した。
太平記新編伊賀地誌
東大寺が黒田荘の悪党を訴える
鎌倉後期から南北朝時代にかけての黒田荘(名張)で、数次にわたって悪党が発生し、荘園領主東大寺に反抗した。彼らが忍者の元祖となったともいわれている。
東大寺文書
伊賀に11人の忍術名人
野村の大炊孫太夫、新堂の小太郎、楯岡の道順、下柘植の木猿小猿、上野の左、山田の八右衛門、神部の小南、音羽の城戸、甲山太郎四郎、 同太郎左衛門の陰忍の上手がいた。
万川集海
伊賀衆が笠置城に忍び込んで放火する
天文10年(1541)11月18日、仁木氏が伊賀・甲賀の7・80人の部隊を連れ笠置城を攻撃した。忍び込んで放火し、城の建物の一部の焼き討ちに成功するが、その二日後、木沢方から反撃を喰らい30人余りの死者を出した。
多門院日記
伊賀衆11人が大和高田城で討死
弘治元年(1555)12月12日、大和高田城に伊賀衆11人が入城していたが、援軍が遅く城内の者は悉く討死した。
享禄天文之記
伊賀惣国一揆が成立
伊賀国の国人・小領主たちが自らの在地領主権を守るために、結合した一揆のこと。掟書の内容から、三好氏からの侵攻に対抗するために組織されたものと考えらえる。甲賀とも同盟を結んでいた。
山中文書
木猿率いる伊賀衆が大和十市城を奪取
永禄3年(1560)3月19日の夜、十市城に木猿率いる伊賀衆が攻入り、十市遠勝は豊田城へと退却した。
享禄天文之記
岡部元信が伊賀衆を使い刈谷城を攻撃
桶狭間の戦いの後、今川方の岡部元信が帰還途上の刈谷城を攻め、伊賀衆数十人に軽率百余人をつけて放火させ、城主の水野信近を討ち取った。その後、水野方の玄蕃允がすぐに駆けつけ、伊賀の服部党の忍の士三十余人が討たれた。
増補家忠日記水野記三河物語
伊賀崎道順が百々氏の居城を攻める
永禄4年(1561)、六角義賢が伊賀者44人・甲賀者48人を連れて佐和山城の百々氏を攻めた。このとき伊賀崎道順が「妖者の術」を使って活躍した。
万川集海
浅井軍として伊賀衆が太尾城に放火する
永禄4年(1561)7月1日、今井定清が太尾城の攻略のために浅井氏に援軍を要請し、伊賀衆を用いた夜襲を決行する。伊賀忍者が太尾城中に忍びこみ、放火を行った。
島記録
伊賀衆200名が松永久秀に対し参陣
永禄5年(1562)12月20日の松永久秀書状に、伊賀衆が松永久秀の敵方の傭兵として200名ばかりがやってきた旨が記載されている。
柳生文書
六角方として野洲河原の戦いに参陣
元亀元年(1570)6月4日、六角氏が一揆を扇動し、佐久間信盛・柴田勝家のぐんと落窪で激突した。六角方についた伊賀衆・甲賀衆などの侍780人が討たれたという。
信長公記
足利勢として山岡景友と石山砦に籠城
元亀四年(1573)2月、将軍足利義昭が信長に反旗を翻し、山岡景友が大将となって伊賀・甲賀衆が引き出され石山の砦に籠城した。
信長公記
時代
伊勢長島一揆にて信長軍を苦しめる
信長の長島攻めの際、一揆勢側に与した伊賀・甲賀の優秀な射撃手が集まり待ち伏せして、連続射撃で織田軍の兵士を数限りないほど打倒した。
信長公記
伊勢の北畠具教が丸山城を築城
天正三年(1575)頃、北畠具教が伊賀国の領国化を画策し、その拠点として丸山城を築城。信長と不和となり、具教は翌年に粛清される。
伊乱記
丸山城の戦い
名張の下山甲斐が織田信雄に伊賀への侵攻を手引きし、滝川三郎兵衛を大将として丸山城の再築に派遣した。伊賀衆は完成前の丸山城へ攻撃して、滝川を敗走させた。
伊乱記
伊賀衆が大和国内の城に忍び込む
大和国宇智郡の坂合部氏の城へ、夜中に伊賀衆が忍び込んだが、二見密蔵院に追い払われたか討たれたと思われる。
犬飼家文書
大阪の陣に伊賀者が50人参戦
宗国史
10名の伊賀忍者が藩士として雇われる
大坂冬の陣の時に、石田清兵衛の取次で10名の伊賀者が召し抱えられる。
藤林氏が『萬川集海』を編纂
菊岡如幻が『伊乱記』を編纂
澤村甚三郎保祐が黒船を探査
藤堂藩伊賀者である澤村保祐が黒船に乗船し、パン2個、煙草2葉、蝋燭2本、蘭語で書かれた紙片2枚を貰い、持ち帰った。
澤村家文書


参考サイト:忍びの館(https://ninja-yakata.net/)