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本物の忍者はこの地から生まれた

いわゆる「神君伊賀越え」について

「神君伊賀越え」とは

「神君伊賀越え」という事件は、天正10年(1582)、織田信長が明智光秀に叛かれて信長が殺された「本能寺の変」の際、徳川家康が和泉国堺から、家康の領国(三河国・遠江国・駿河国)まで逃げのびたことをさす(家康は没後、「東照大権現」という名の神として祀られたので、彼のことを「神君」とも言っている)。
家康は信長の同盟者であり、「本能寺の変」の際、家康はちょうど、堺を物見遊山の最中であった。信長は、天下統一目前であり、堺を含む畿内の領域に軍事的危機は薄く、そのため、家康はたいした手勢も連れていなかった。
家康ははるか後年、江戸幕府を開き天下統一を成就させるが、彼の長い75歳までの人生において、幾度かの危機があった。その危機の中で、特筆される事件が、この「神君伊賀越え」である。ちなみに、本多隆成氏は、家康の特に大きな危機として3つを挙げており、1つめを三方原の戦い、2つめを羽柴秀吉との政治的・軍事的対立(「家康成敗」の危機)、3つめを「神君伊賀越え」である、としている(本多隆成『徳川家康の決断』)。

史料は少ない

「神君伊賀越え」は、このように、家康にとって大きな危機ではあったが、具体的にどのような経過を辿り、どのようなことがあったのかは、信用できる史料が少なく、不明な点が多い。残っている史料は、信頼性の薄い伝承や説話、家を誇るために作られた由緒が多い。逃走する家康が、どのような逃走道を辿ったのかさえ、わからない。本当に伊賀地域を通ったのかということも、時々、疑義が提出されているものの、伊賀地域を通ったことを、明確に否定することも肯定することもできない。その理由としては、この事件がほんの短い間であったこと、戦乱の時期で明確に記録する時間がなかったこと、目撃者が少ないことなどが挙げられる。
家康の逃走路については、可能性の度合いで分類する藤田達生氏の見解が穏当だろう(『伊賀市史第一巻 通史編 古代中世』)。逃走路は、近江国信楽から加太峠を越える間であるが、どのような路かは、「石川忠総留書」の路(丸柱➔河合➔柘植 ①)、「徳川実紀」の路(多羅尾➔御斎峠 ②)、「戸田本三河記」の路(③)の3説に分かれる。藤田氏は、①は可能性が高く、②はかなり低いが、③も否定できない、と述べる。

服部半蔵は加勢したか

史料が少なく、そのうえ、関係史料は近江国甲賀郡にのみ残っているという状況(前述『伊賀市史』)であるから、巷間で言われているように、服部半蔵が伊賀者を率いて家康の危難に駆けつけ伊賀越えを助けた、という状況は、論証し得ないし、状況としてもあり得ないことである。
 徳川幕府の伊賀者の由緒書には、伊賀者が「神君伊賀越え」のために駆けつけ「御案内申し上げ」、後日に尾張国鳴海で召し抱えられた、ということが頻繁に登場する。これは、江戸時代、江戸城大奥など将軍近辺に勤務する伊賀者たちが、先祖以来の勤務の正統性を訴えるために創作した話であろう(高尾善希『忍者の末裔 江戸城に勤めた伊賀者たち』)。この種の「神君伊賀越え」の話は、江戸時代における伊賀者の権益を守るためのもので、むしろ、江戸時代の政治的状況を理解するための史料である。(高尾善希)

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忍者の里 伊賀(三重県伊賀市・名張市)
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