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本物の忍者はこの地から生まれた

天正伊賀の乱

伊賀国惣国一揆

天正伊賀の乱は、織田氏勢力と伊賀国の地侍たちが戦った、2回の戦争(第一次天正伊賀の乱・第二次天正伊賀の乱)をさすことが多い。
この2回の戦争の結果、伊賀国は織田氏勢力に屈服させられたことになる。ただし、第一次では、伊賀国の地侍たちが、地の利を活かして戦いを有利にすすめ、織田氏勢力を撃退させているので、織田氏勢力の伊賀国平定は、容易ではなかったといえる。

織田氏勢力と伊賀国の地侍たち

伊賀国平定について、織田氏勢力を悩ませたのは、伊賀国の地侍たちの結束の強さであった。地侍たちは、ヨコに繋がり、地侍による連合政体である一揆を組み、他国の軍事的脅威に対応しようとした。三重県の神宮文庫には、伊賀国惣国一揆による掟書が残っており、地侍の結束の内容について知ることができる。そのなかには、城を取る能力のある足軽(百姓)に対して褒美支給・侍身分上昇を保証する条文がある。これには、伊賀国にいる身分の低い忍びを、伊賀国内に留め置く目的があったと思われる。なぜなら、この条文には、足軽が他国に赴いて戦場出稼ぎをすることも触れているからである。彼らの有無は、戦争の状況を左右するものと認識していたと思われる。
 このように固く結束した伊賀国の地侍は、攻略してくる織田氏勢力を翻弄することになった。この天正伊賀の乱の様子は、「伊乱記」や「信長公記」などに記録されている。

第一次天正伊賀の乱

第一次天正伊賀の乱は、天正7年(1579)、伊勢国の織田信雄(織田信長次男)が、父親である信長に断ることなく、独断で伊勢国の勢力を率いて伊賀国を攻略したことによって発生した。8000の兵で三方から伊賀国に侵入した。
伊賀国の地侍は、織田軍をゲリラ戦で退け、特に、織田軍の築いた丸山城を攻略して落城させたり、有力な武将を討ち取ったりして善戦し、織田軍を退けている。信長は、信雄のこの失敗を咎め、「親子の縁を切る」という激しい文章で叱責している。

第二次天正伊賀の乱

第二次天正伊賀の乱は、天正9年(1581)、信雄が、第一次の戦いよりも兵の数を多くし、50000の兵で、六方から伊賀国に侵入した。
伊賀国側は、平楽寺城(後の伊賀上野城)や比自山城に籠城して、織田軍の蒲生氏郷・筒井順慶などを翻弄するなど、よく織田軍と戦ったが、結局、伊賀国の南部にある柏原城に逃げ込み、最後の戦いを試みた。
奈良の大倉五郎次という者の仲介によって、柏原城は開城し、第二次の戦いは終焉した。この戦いで、伊賀国中の寺社や村々は焼き尽くされたという。
「乱後、寺社が復興された」という類の話が多く、これらによって、乱の戦火の大きさを窺い知ることができる。この後、伊賀国における織田軍に反抗した人びとは、他国に落ちのびていった。これが、全国に伊賀者がひろがっていくきっかけのひとつとなった。また、伊賀国の地侍たちの多くは、江戸時代以降、藤堂藩から無足人という在村士分としての格式が与えられた。(高尾善希)

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忍者の里 伊賀(三重県伊賀市・名張市)
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