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本物の忍者はこの地から生まれた

藤堂藩の伊賀者

藤堂藩の伊賀者

そもそも「伊賀者」という語は、①伊賀国のひと、②伊賀国の忍者、③藤堂藩が召し抱えた(伊賀国出身の)忍者、その役職名、という3つの意味がある。ここでは、④について解説する。
 言うまでもなく、戦国時代以来、伊賀国は忍者を数多く発生させた地域である。彼ら忍者の出稼ぎによって、伊賀国の忍者の評判は、ひろく伝わっていった。江戸時代、伊賀国は藤堂高虎を藩祖とする藤堂藩に支配されていた。当然、藤堂藩は伊賀者を召し抱えたが、もちろん、徳川幕府や他藩も、伊賀者は召し抱えられている(彼らの家はすでに伊賀国からは離れている)。
藤堂藩が抱えた伊賀者は、伊賀上野城・津城の警備や、江戸藩邸の玄関の警備、参勤交代での随行、情報探索などの役目を負った。藩主の身辺警護が主たる任務であった。忍び働きには、忍び働きの専門職として、逆に、外からの忍び行為を防ぐ、という警護の仕事も期待されていたわけである(これには幕府や他藩でも同じような傾向がある)。

人数と禄高

伊賀者の人数は、現在確認できる最多の人数は24人で、通常は20人~10人すこしほどであった。明暦3年(1657)の「明暦の大火」以後、藩財政の節約のためか、人数が少なくなる傾向にあった。伊賀者の家は固定化されることは少なく、家が変わることが、むしろ常態であった。江戸時代初期から幕末まで、世襲で伊賀者を継いでいた家は、貝野家など、ごく少数しかいない。
忍者を多く排出した伊賀国を領する本場の藩としては、登用の数が少ないようにもみえる。しかし、伊賀国の忍びの子孫たちが、無禄の武士(無足人)として登用されているし、他藩へ忍びとして士官している事例も、数多くみられる。
伊賀者の禄高は、家により様々であり、一概にはいえないが、寛保2年(1742)の「分限帳」(藤堂藩士の名簿)を例にとると、伊賀者は当時15家を連ね、禄高が最も多いのは、貝野九左衛門の43俵5人扶持で、もっとも少ない30俵3人扶持の家が、もっとも数が多い。

伊賀者は村から

伊賀者は、すべて郷士層(在村の武士)より登用されていることが特徴的である。江戸時代においては、普通、武士は城下町に住むが、地域によっては戦国時代の侍の由緒をもつ郷士が存在する。伊賀国も、特に郷士がたくさん存在する地域である。
藤堂藩は、畿内の押さえとしての伊賀国の軍事的重要性や、そのような社会状況に鑑み、忍者の系譜をひく郷士などを、伊賀者に登用したのである。
ただし、伊賀者にも、伊賀上野城の城下町に屋敷を賜ったことがあり、そこには、現在、「忍町」(しのびちょう)という町名が残っている。しかし、城下町の屋敷を集中的に賜る時期は、近世初期に限られ、伊賀者は村に在籍することが基本であった。
伊賀者で著名な家に、澤村家・貝野家・木津家などがある。それぞれの家に、藩に提出した由緒書の写しなど、伊賀者としての公務記録が残っている。(高尾善希)

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忍者の里 伊賀(三重県伊賀市・名張市)
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