伊賀越え

いがごえ

明智光秀の反逆のあと、徳川家康による命がけの脱出

徳川家康はその生涯で四度の大難に遭ったと心の中の思いをのべていますが、中でも「伊賀越えの難」は「御生涯艱難の第一」と徳川実紀に記しています。
戦国の風雲児・織田信長が明智光秀の反逆によって生害という知らせを家康が受けたとき、境見物の帰路、河内の飯盛山の麓(大阪府大東市)でした。この時の共は酒井忠次、石川数正、本多忠勝、榊原康政、服部半蔵など重臣ばかりであったが、三十数名に過ぎず、その上、平服だったのです。
家康は「本来なら明智を討伐すべきだが、この少人数ではどうしょうもない。むしろ知恩院にて切腹を」と言ったが「本国に帰りの軍勢をととのえて、明智を誅伐することこそ信長公への報恩」という本多忠勝の進言により、脱出の方途の相談となりました。

信長より案内役として同行していた長谷川秀一の先導により、おそらくは河内尊延(円)寺(大阪府枚方市)から宇津木越えから、山城に入り草内から木津川を渡って宇治田原を経て近江信楽。その後小川から多羅尾、御斎峠、伊賀丸柱にいたり鹿伏兎を越えて伊勢にぬけ、船で三河へ帰国したいと考えられます。

伊賀に入るまでの難関を命がけで護衛したのが、大和の十市玄蕃允、呉服部明神の神官服部貞信、信楽の豪族多羅尾光俊、宇治田原の山口光広、近江瀬田の城主山岡景隆と弟の景友(後の道阿弥)らです。反乱には付き物の野伏や一揆などにさいなまれはしましたが、無事伊賀に入り、その後は柘植三之丞など甲賀・伊賀の地侍が伊勢白子浜(鈴鹿市)まで案内したと言うことです。この事跡を後世、神君伊賀越えなどと呼んでいます。

家康は、この時の甲賀・伊賀者二百名を召し抱え、服部半蔵正成をその組頭としました。これが伊賀組同心の起こりです。

参考文献「徳川実紀」「伊賀者由緒」「三河後風土記」