【写真 名張藤堂家邸】
天正伊賀乱の後、簗瀬村の現丸の内が城下町として発展。慶長13年(1608)藤堂高虎・家臣梅原勝右衛門が名張に赴任。寛永13年(1636)藤堂高吉が伊予から名張城主になる。
名張藤堂家が支配するが、実情は家臣格で独自の行政は行えなかった。大火で全焼したが大名屋敷を再建。現在、寿栄神社にある太鼓門が当時のまま。
名張陣屋町として丸之内、中町、上本町、柳原町、鍛冶町、本町、新町、元町、豊後町、木屋町、榊町、松崎町、上八町、東町がある。
旧細川邸は、薬商細川家(奈良県宇陀市大宇陀)の分家として建てられる。細川家は樟脳を扱っていた。樟脳は『萬川集海』の火術としても使われていた。
上野城下に忍町があったわけで名張にも伊賀者は在住しただろう。薬に関わる忍者や名張藤堂家を監視していた忍者が考えられる。