【写真 黒田庄遠景】
黒田庄は東大寺支配板蠅杣に始まった、南伊賀大半を占めた古代、中世の大荘園。弘安年間(1278〜1288)、黒田荘は東大寺配に反抗勢力の拠点であった。彼らを黒田の悪党と呼ぶ。
悪は「悪者」でなく「強者」という意味。黒田の悪党は黒田荘下司大江氏であった。北伊賀の悪党と共に東大寺に従わず強力な地侍の連合体として成長していき戦術集団として組織化された忍びの原型が見られる。ゲリラ戦を得意とした。
東大寺は再三再四足利幕府に悪党鎮圧を要請したが成功せず、南北朝の時代には黒田の悪党は南朝側につき、その際河内の大悪党楠木正成も呼応して挙兵しており、やがて荘園体制が崩壊してゆき悪党は地侍、国人となり、その中の何人かが忍者と呼ばれる傭兵と考えられ、その傭兵を抱えた国人衆が織田信長に対抗するために「伊賀惣国一揆」を結成することになっていく。