伊賀国の柏原(かしはら)は、宇陀川の支流滝川の東岸の平地から山麓部にかけて位置する(現、名張市赤目町柏原)。地名は集落が立地するまではカシの茂った原野であったことから起こったとされる。柏原村の土豪滝野氏の居城であった。
高天原山の山麓に続く丘陵の先端部に築かれた大規模な土塁、周辺部は崩壊し荒地となった部分もあり、全景は不明だが、中央部の原型は残る。本丸は1辺約25メートルの方形で、その東隅に深い井戸がある。小さな石で固めた土塁を巡らし、さらに二重の土塁も築き、前に空掘を巡らしていた。
織田家と伊賀国諸勢力との戦いのひとつである、第二次天正伊賀の乱において、柏原城は最後の戦いの場となった。
織田軍の猛攻の前に、名張郡各村や北伊賀方面の残存勢力は、伊賀国南西の隅へと追い詰められて、柏原城へ集結した。この城に集結した軍勢は、士438人・雑人1200余、計1600余人である。これに対し、織田軍が柏原城を包囲し、織田軍の先陣が1回目の攻撃をかけたが、激戦の後、多くの戦死者を出して、引き下がった。織田軍の将、織田信雄(織田信長次男)は、この柏原城を手強いとみて兵糧攻めにした。前述の通り、柏原城は要害の地であったが、兵力の差があり、籠城側は一時、討ち死にを覚悟した。しかし、奈良の大倉五郎次という猿楽太夫の勧告により、土豪たちは降伏した。これによって、天正伊賀の乱は終結した。