近江国の多羅尾村と伊賀国の西山村を結ぶ峠のひとつが御斎峠(おとぎとうげ)である。「伊水温故」によると、名の由来は京都東福寺の開祖、聖一国師弁円が、伊賀三田郷安国寺へ来たとき、西山村の長老が必ず山上で膳を供したことによるとされる。僧に振る舞う食事のことを斎ということから、御斎峠と呼ばれるようになった。
しかし、弁円が亡くなったのは弘安3年(1280)、そして、安国寺が建立されるのは貞和2年(1346)頃で、「伊水温故」の記述にあわない。
「源平盛衰記」の「範頼・義経京入事」では、源義経が御斎峠近くあった頸落滝という滝名を忌み、御斎峠越えを避けた、という伝承がある。また、「中書家久公御上京日記」によると、天正3年(1575)5月28日、島津家久は伊勢参宮のため京都を出発、近江国甲賀郡より御斎峠越で伊賀国に入った、という記述がある。
御斎峠の名が出てくる最も著名な出来事は、本能寺の変の時に堺にいた徳川家康が、帰国するために急遽伊賀越えをした、いわゆる「神君伊賀越え」である。帰国する時に御斎峠を通ったという話がある。そのときに護衛についた甲賀者は100余人であったが70余人は戦死、家康はその功に報いるため、甲賀百人組を編成し江戸城の大手三門の警固にあたらせたという話がある。しかし、家康が御斎峠を通ったかどうかは、定かではない。あくまで、神君伊賀越えの諸説あるルートのひとつである。
多羅尾村の浄顕寺にはその昔、御斎峠の路傍にあったという南北朝期の石仏十王像が今も残る。