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本物の忍者はこの地から生まれた

無量寿福寺

無量寿福寺

無量寿福寺は、伊賀市と名張市のちょうど中間に位置する。西に山を頂き、すぐ近くには南北に流れる長田川(木津川)があり、そこに東から比自岐川が流れ込む。

伊賀国の三田荘に生まれた行然により、文政初年頃に「興営」された(「本朝高僧伝」)。それ以前から、この地には何人もの僧侶がやってきたようであるが、その中の一人が聖一国師である。「伊水温故」には、彼がここの景色を見て「震旦五山随一明州慶元府天童山京徳禅寺ノ瑞台ニヨク似タリトシテ、号天童山」(「中国五山随一の浙江省にある天童山京徳禅寺の瑞台に似ているので天童山と言う」)といい、そこから「天童山」と号されたとの記述がある。

さらに「伊水温故」には「本間十三間四方、護摩堂・客殿・食堂・鐘堂など偉容を誇った」との記述があり、かなり立派な寺であったことが伺える。しかし、天正9年(1581)に兵火に焼かれることになった。

その経過は織田氏と伊賀惣国一揆との戦い、天正伊賀の乱に関する書物「伊乱記」に詳しく描かれている。その「巻之一 無量寿福寺の来由」で当寺の説明がなされ、そのあと、織田信雄が伊賀国攻略のために丸山城を築城する模様が語られる。そして、「巻之二 丸山合戦」において「伊賀の勇士を心の儘に討ち亡し、分国になすとの計略ふりと風説専らなり、之(これ)に依て住士共、天童山に馳せ集まり」との記述が続く。織田氏によって危難が及びそうになった伊賀者たちが無量寿福寺に集まり、そこから見える丸山城攻略を考え、見事に織田氏を撤退させたのであった。

しかし、第二次天正伊賀の乱では、伊賀地侍衆の衆会の場となったため、兵火に焼かれてしまった。本尊阿弥陀如来と大黒天の二像のみが難を免れ、それを中心に後に復興され、現在にいたる。

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忍者の里 伊賀(三重県伊賀市・名張市)
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