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本物の忍者はこの地から生まれた

丸山城跡

丸山城跡

城域は、丘陵尾根上を中心に、東西約380メートル・南北約420メートルの範囲に広がっている。伊賀地域最大の山城である。また、本丸とみられる広い平坦地の一角に造成された高さ約5メートル・下幅約12メートルの石材が散乱していることから、当初は石垣造りであったと考えられる。現在の伊賀市下神戸と枅川の境にある。

伊勢国の戦国大名の北畠氏は、守護のいなかった伊賀国の領国化をねらっていた。北畠具教は、天正3年(1575)に、神戸に丸山城を築いて、そこを伊賀国攻略の足場にしようとしていた。しかし、天下をねらう織田信長が、次男の茶箋丸(のちの信雄)を北畠氏の養子とし、天正3年に、北畠氏の家督をつがせ、事実上、北畠氏を乗っ取ってしまった。さらに、翌4年、具教を追いつめ自害させた。そこで、丸山城の築城も中断してしまう。

天正6年、織田信雄は、伊賀を攻略の拠点として丸山城の修築に乗り出した。修築は家臣の滝川三郎兵衛が担当した。こうした織田氏の動きに対して、伊賀国の土豪たちは、木津川をはさんで丸山城と相対する天童山に集まり、滝川を襲撃することを決定した。

10月25日の白昼から丸山城総攻撃が始まった。滝川勢はその日のうちに敗走した。この合戦は、天正伊賀の乱の序幕でもあった。

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忍者の里 伊賀(三重県伊賀市・名張市)
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