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本物の忍者はこの地から生まれた

百地砦跡

百地砦跡

伊賀三大上忍の一人、百地丹波守(ももち たんばのかみ)が、配下の下忍達と共に住んでいたとされる砦跡(上忍・下忍の階級差があったとすることは、小説などのフィクションであり、史実ではない)。この丹波守はフィクション上の伊賀流忍術の祖「百地三太夫」のモデルである。「砦」となっているが、中世城館の跡のひとつである。

百地砦西側には、百地氏の菩提寺青雲寺がある。墓石には発見されないが、同寺の徳川期の過去帳、「廿二日」の項に、没年不明、「本覚了誓禅門 百地三之丞先祖」の記載があり、これが丹波守の戒名と推定されている。彼の天正伊賀の乱における活動は、菊岡如幻の「伊乱記」に記載されている。

砦を南に抜けると式部塚がある。「式部塚由来記」によると、南北朝時代における百地氏先祖丹波守泰光の寵愛をうけた「式部」なるものが、泰光不在の折、砦を尋ねた際に、本妻の怒りを買って殺害された、これを不憫に思った泰光が式部を弔った塚に樒(しきみ)を植えた、という話がある。そのため、別名「樒塚」ともいわれる。

現在では、悪縁切りのご利益があるとして、現在でも使い古したハサミやカミソリをおいていくひとがいる。その他、釜茹で有名な石川五右衛門は、丹波守(三太夫)から忍術を習い、これを京都で活用することで、天下の大泥棒になった、とする話も存在する。小説、和田竜『忍びの国』にも、百地砦に関する記載がみられる。

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忍者の里 伊賀(三重県伊賀市・名張市)
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