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本物の忍者はこの地から生まれた

近代の自称「忍者」と忍者研究者

忍者今昔

戦国時代は奇襲などの軍事的な任務も担い、江戸時代になると情報探索や警備が主になった忍者。特に、「伊賀者」「伊賀衆」「伊賀組」など、「伊賀」と名のつく忍者は、伊賀国だけでなく、江戸時代では各藩などに存在することになり、各地で任務にあたっていた。
江戸時代が終わると、どうなっただろうか。忍者という職はなくなったが、忍術までもが消えたわけではない。職としては過去のものになった忍者や伊賀者は、史実としての研究対象になり、また、忍者を題材にした数多くの創作物も生み出されていくことになる。忍術も忍者同様、研究対象となったと同時に、創作化もされていった。

自称「忍者」

忍者・忍術は不思議で超人的な存在としてそのイメージが独り歩きしていたが、明治・大正期には「忍術は決してそんなものではない」という研究書が数多く出版された。そして、忍術を習得しようとしたり、披露しようとしたりした人物も、明治時代以降の伊賀地域には存在している。
明治時代生まれの、現・伊賀市大野木の大工、久保田久徳は、たびたび村人に忍術を披露していた。久徳は伊賀市白樫にある岡八幡宮にて忍術修行をしたという。水上歩行の術などをはじめとした術を、大野木村の池で「忍術」として披露していたそうだが、果たして、この忍術というのが、江戸時代から存在していたのかは不明である。
同じ頃、外国人から催眠術などを教えてもらい、サーカス団の団長となった宮岡天外という人物もいる。記録によると宮岡天外は伊賀の生まれで「見上げるばかりの大男」だったという。この宮岡天外もまた忍術を披露していたと、明治時代の新聞に記録されている。

忍者・忍術を広めた市長

この二人の共通点は、あくまでも忍術を、大衆に披露するための芸としていたことである。そうではなく、忍術を実践して役に立てようという意図で忍術を研究していた人物が、伊賀地域にいる。それが旧上野市の市長だった奥瀬平七郎である。もともとは上野市役所の職員だった奥瀬平七郎は、伊賀地域が忍者や忍術の聖地であるということを積極的に宣伝し、自身も、『忍術処世法』などといった、実生活での忍術の応用法などを記した書を出していた。
また、いまでは伊賀地域といえば忍者や忍術のイメージが強いが、このイメージは、漫画や映画の影響だけではなく、1940年代から70年代にかけて、伊賀忍者の存在を日本中にアピールしようとした奥瀬平七郎の試みが成功した結果でもある。
結果的には奥瀬平七郎の試みも大衆へ伊賀忍者と伊賀流忍術を披露するという形にはなったが、昨今では日本だけではなく世界中から「忍者の聖地伊賀」に人々が訪れることとなった。
現在でも、忍者や忍術といえば、手裏剣を投げて、巻物をくわえてどろんと消える、そういうイメージが強い。しかしながら、伊賀地域は、そういう忍者像を抜きにしても「忍者の聖地」であり、それを証明する史跡や文化財が数多く現存している。(酒井裕太)

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忍者の里 伊賀(三重県伊賀市・名張市)
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