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本物の忍者はこの地から生まれた

忍術の起源は?(にんじゅつのきげんは)

なぜ 伊賀、甲賀が忍術発祥の地とされているのですか?

 古くは、古代から忍術的な働きをした人がいた様子がうかがえる記録もみられます。忍術は突然発生しものではなく、長い年月を経て室町時代頃にまとまったものと考えられますが、伊賀、甲賀において発達したのは、都に近かったことや修験道(しゅげんどう)の行場が多かった

こと、渡来人(とらいじん)がもたらした先進文化、政治的な亡命者が多かったこと、山もありゲリラ的戦術が発達したことなど、さまざまな要因があげられます。戦国時代に伊賀、甲賀の実技が最も優れていたので、その名が高まったようです。

伊賀流忍者の始祖は誰ですか?
武術や兵法は、流脈をまとめた人を流祖としています。しかし、伊賀、甲賀の忍術の場合は、誰が始めたとか、誰がつくったものというのではなく、伊賀、甲賀地方に起こった特殊な兵法(軍法)が、忍術と呼ばれるようになりました。

 始祖を忍術伝書に求めると、「忍法(にんぽう)秘巻(ひかん)」には平安時代末期の伊賀(服部)平内(へいない)左衛門(ざえもん)家長(いえなが)を始祖としています。さらに古くは、「伊乱記(いらんき)」「忍(しのび)秘伝(ひでん)」などに記されている御色(おいろ)太夫(たゆう)(御弓(おゆ)路(ろ)太夫(たゆう)、御色(おいろ)多由也(たゆや))がいます。紀元前の中国を統一した秦(しん)の始(し)皇帝(こうてい)から命じられて、不老(ふろう)不死(ふし)の妙薬(みょうやく)を求めて日本に来た徐福(じょふく)が連れて来た人物(「忍秘伝」の奥書きには女性と書かれています。)と言われています。熊野(三重県熊野市)に上陸し、薬草を求めて伊賀に来て住み着き、いろいろな先進技術を伝えたのが忍術の始まりとも伝えられています。

伊賀流と甲賀流はどのように違いますか?
本質的には同じです。忍術伝書には「伊」「甲」どちらにも読めるよう、わざとまぎらわしい崩(くず)し字で書いているものもあります。「萬川集海(ばんせんしゅうかい)」も双方に数種の写本(しゃほん)が伝えられます。著者の藤林(ふじばやし)保武(やすたけ)は、伊賀の湯舟(ゆぶね) (三重県阿山郡阿山町)の人ですが、この場所は甲賀との境界付近であり、甲賀では甲賀(こうか)隠士(おんし)の肩書を冠しています。

※写本(しゃほん)-原本を筆で写し取ったもの。写本の写本など、書き写すときに誤字や脱字などが生じて伝わるため、原本が出された年代に近い(古い)ほうが価値が高い。

ちょっと休憩
三大忍書といわれている忍術伝書があります。
  ① 藤林(ふじばやし)保武(やすたけ)著   萬川集海(ばんせんしゅうかい) 伊賀・甲賀流忍術を集大成したもの
  ② 藤林(ふじばやし)正武(まさたけ)著   正忍記(せいにんき) 紀州流の伝書
  ③ 服部半蔵(はっとりはんぞう)正成(まさなり)著忍(しのび)秘伝(ひでん) 伊賀・甲賀流の伝書
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伊賀流と甲賀流は仲が悪かったのですか?
 テレビや映画、漫画などで伊賀と甲賀の忍者が敵対しているように描かれることが多いのでそのように思われがちですが、実際に敵対したという事実は少ないのです。地理的に隣接していて、昔から親類関係が多く、交流のあった様子がうかがえます。戦国時代でも、伊賀と甲賀の境界で野寄合(のよりあい)と呼ばれる野外会議が開催され、同盟を結んでいました。ただ天正9年(1581)織田(おだ)信長(のぶなが)による伊賀攻め(天正伊賀の乱)では、敵対した一族がありました。

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忍者の里 伊賀(三重県伊賀市・名張市)
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