徳川家康は、生涯で四度の大難(たいなん)にあったと晩年に心中を打ち明けています。その中でも一番の大難は、本能寺の変のとき、堺(大阪府堺市)見物をしていて帰路が危うくなった時だと言います。本拠(ほんきょ)の浜松城(静岡県浜松市)にもどる“伊賀越え”と呼ばれる逃避行(とうひこう)は「徳川(とくがわ)実記(じっき)」に「御生涯(ごしょうがい)御艱難(ごこんなん)の第一とす」と特記されています。
天正10年(1582)6月1日、京都の本能寺にわずかな供回りで宿泊していた織田信長は、明智光秀軍一万三千の反逆にあい、自殺しました。このとき徳川家康は、長年の同盟関係の労をねぎらう信長の招待を受け、安土城(滋賀県安土町)でもてなしを受けたあと、堺見物をし、京都にいる信長にお礼のあいさつに向かう途中でした。河内の飯盛山(いいもりやま)のふもと(大阪府大東市)まで来たところで本能寺の変を知りました。このとき、家康の供回りはわずか三十数人にすぎず、しかも旅行者にすぎない一行は平服で何の戦闘力もありませんでした。途中には明智の軍勢はもとより、巧名(こうみょう)や褒美(ほうび)目当ての土民一揆(いっき)や山賊らが待ち構えています。いかに危険な道中であったかは、これより別行動をとった大名の穴山梅雪(あなやまばいせつ)一行が宇治(うじ)田原(たわら)(京都府宇治田原町)付近で一揆勢に襲われて殺されたことからもうかがえます。
家康一行のとった行程は、日数もハッキリとわかっていません。推測すると、河内の尊(そん)延寺村(えんじむら)(大阪府枚方市)から宇津(うつ)木越(ぎこ)えをして山城(やましろ)の宇治田原(京都府宇治田原町)に入り、そこから近江の信楽(滋賀県甲賀郡信楽町)に至ったと考えられます。そして、甲賀南部から伊賀の北部をかすめるように“伊賀越え”をしたものと思われます。柘植村(三重県阿山郡伊賀町)から加太(かぶと)越えをし、関宿(関町)、亀山(亀山市)を経て白子浜(鈴鹿市)から舟で領地の三河(愛知県)に帰還しました。
道中、リレー形式でいろいろな一党が警護や道案内を勤めた様子がうかがえます。それらを味方につけることができたのは、同行者の豪商・茶屋(ちゃや)四郎(しろう)次郎(じろう)が持参の大金を報酬として支払ったとも考えられます。家康は後に、四郎次郎を幕藩体制作りの相談役の一人に加え、海外貿易や国内の経済問題、貨幣(かへい)鋳造(ちゅうぞう)などを任せるなど、このときの恩に報いています。
お供の顔ぶれも不明な点が多く、「伊賀者(いがもの)由緒記(ゆいしょき)」には、伊賀路を服部半蔵(はっとりはんぞう)正成(まさなり)が案内したと書かれていますが、「徳川(とくがわ)実記(じっき)」には出てきません。三河の岡崎で生まれ育った半蔵には、伊賀路を案内するのは無理だったのではないでしょうか。実際に伊賀衆を率いて伊賀路を道案内したのは、柘植(つげ)三之(さんの)丞清広(じょうきよひろ)だったようです。
伊賀越で、伊賀者、甲賀者の能力を目の当たりにした家康は、徳川軍の戦闘力として召し抱えました。伊賀衆は半蔵に預けられ、甲州攻めを始め10数度の合戦で奮戦し、後の徳川幕府における伊賀組同心の起こりとなりました。