誇り高い伊賀の郷士を配下に治めるために、藤堂藩初代藩主高虎によって整備された制度です。扶持米(ふちまい)(報酬)のない無給ですが、武士階級としての面目を保ち、毎月六回訓練を行って武芸に励みました。普段は農業にいそしみ、山(やま)廻(まわ)り役(やく)や薮廻役(やぶまわりやく)などを努め、事あるときには軍役に従事する武士の予備隊でした。実際には特別手当として扶持米が支給されていたようです。藤堂藩では毎年「武芸一覧」と称する演習が催され、無足人たちは藩主の前で、家伝の火術を披露しました。寛永13年(1636)の伊賀藤堂藩の家臣団記録である「伊賀付(いがづけ)差出帳(さしだしちょう)」によると、組外の衆、母衣組の衆、鉄砲組の衆、留守居組の衆、忍びの衆の五班に家臣を編成していますが、この内の忍びの衆が無足人でした。