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本物の忍者はこの地から生まれた

笹寺(ささでら)

東京都新宿区

伊賀組同心のストライキ
徳川家康の艱難辛苦に満ちた生涯を表から裏から支え続けた服部半蔵正成は、関ヶ原の合戦を4年後に控えた慶長元(1596)年、55歳でこの世を去りました。
正成亡き後、嫡男の正就<まさなり>が半蔵の名と、父の遺領8,000石のうち5,000石、それに与力7騎、伊賀組同心200人を受け継ぎました。
ところが苦労人の父と違って、生まれながらの大身旗本であった正就はわがままで粗暴でした。家康の異父弟で伊勢桑名(三重県桑名市)11万石の城主だった松平(久松)定勝<さだかつ>の娘、つまり家康の姪を妻に迎えたことも、彼をいっそう増長させたのかもしれません。
正就は自分の屋敷の普請をするのに、伊賀組同心たちをまるで下僕のように扱い、労力ばかりか材料まで提供させました。従わない者には、給料に当たる糧米<かてまい>を減らしたり、払わなかったりしたのです。
もともと同心たちは徳川家に召し抱えられたのであって、服部家の私的な家来ではありません。当然、彼らは反発しました。正就と折衝することも試みましたが、一向に埒<らち>があきません。正就は話を聞くどころか、反抗する者には私刑をもって臨むといった有様でした。
慶長10(1605)年秋、彼らの怒りがついに爆発します。弓・鉄砲を揃え、200人が四谷の笹寺(ささ寺)に立て籠りました。ストライキを敢行したのです。
彼らの要求は、正就の罷免と与力への昇格、それに扶持米のアップでした。もし訴えが容れられなければ、斬り死にする覚悟だったといいます。
もちろん、彼らの要求がたやすく通るわけがありません。幕府は旗本に命じて笹寺を包囲させました。ところが、そこはさすが忍者です。寺を抜け出しては食料を調達するために市中を荒らし回ったので、江戸の治安は大いに乱れました。
ようやく幕府は重い腰を上げ、事実調査に乗り出します。その結果、伊賀組同心の言う通りであることがわかりました。そこで正就を罷免し、同心たちを大久保忠直ら4人の旗本に分けて所管させました。
一方的に処罰されて、憤懣やる方ないのは正就です。彼は首謀者10人の処刑を要求しました。
確かに徒党を組むことは幕府の規則に違反しますし、市中を荒し回った盗賊まがいの行為は許されることではありません。8人はあえなく打首となりましたが、2人が逃亡してしまいます。
執念深い正就は彼らを探し回り、そのうちの1人らしき人物を見かけて後を追い、斬り殺してしまいました。
ところが・・・、なんとこれが、人違いだったのです。
しかも悪いことに、正就が斬ったのは、関東代官頭を務め、徳川幕府による地方支配の基礎を築いた功労者伊奈忠次<いなただつぐ>の家士でした!
ことここに至って、ついに服部家は分家だけを残して改易となってしまいました。
同心たちが立て籠った笹寺は、正しくは四谷山長善寺(東京都新宿区四谷4-4)といいます。
笹寺という呼び名は、2代将軍徳川秀忠が鷹狩の途中に立ち寄った時、境内に笹が繁っているのを見てつけたのだそうで、こちらの方が正式名称よりも浸透しています。
地下鉄丸ノ内線の四谷三丁目駅を出て、甲州街道を4丁目方向に進むと間もなく、左手に寺への入り口を示す門柱がありますが、そこにも「曹洞宗四谷山 笹寺」と彫られています。
sasadera
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忍者の里 伊賀(三重県伊賀市・名張市)
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