また恥を知るのも義である。
少しも二心無く主君に奉公し、主人が困窮したときもそばを離れず、あるいは主人の身が危ういときは先に立って討ち死になどするのは、義の大いなるところである。
しかし非義の義といって、義に似て義ではないものがある。ときどきの理によって変化するのが義とは言っても、あるいは利欲に任せ、あるいは理にかなわないことに切れ離れるのは、義に似て義ではない。
時の良い道理に従って行うのが義と言っても、私事の勝手な道理に従って、困窮するとき偸盗などをしておいて、時の良い道理であるというのは義に似て義ではない。
恥を知るのは義であると言っても、恥じるべきでないことを恥じるのは義ではない。
主人に二心無く奉公して、一戦の時討ち死にするのは義であると言っても、無道の君主に二心無く奉公して討ち死にするのは義に似て義ではない。子路が衛の出公輒という道をわきまえない人に仕えて、後に討ち死にした類である。
だいたい軍法というのも剣術というのも忍術というのも、その他人を殺す術芸は、いずれも道をわきまえない者の勢力が強いのを討ち滅ぼすための術である。
それをどうして、道をわきまえないの人の味方をしてその人を助けることがあるのか。
問うて言う、いかに無道の君主であるといっても、仕えている間に君主の一大事が起きて、その時死ぬこともせず諸人に臆病者といわれる、このような時はどうすればいのか。
答えて曰く、無道の君主であれば初めから仕えてはいけない。もし無道の君主と知らずに仕えてしまったならば即刻退くべきである。
そうすればどうして無道の君主のために討ち死にするだろうか。
問うて曰く、その無道の君主に行く末の奉公を構えばどうであるか。答えて曰く、無道は死に至るまで変わらない。強にして矯、と孔子が言っているのを守り、伯夷叔斎を師とするべきであるが、それほどの考えが無いのであれば忍の正道に至ることは不可能である。なお口伝に古人曰く、死生は自らの運命であり、貧窮は自らのときである。
天の定めを怨む者は運命を知らない。貧窮を怨む者は時を知らない者である、と。
一、忠というのは自分の心を尽くしつくすことをいう。
たとえば、君主に仕えるときはその体をゆだね、自分の心をことごとくしつくして自身の心を少しも残さず、君主のためにその身が死ぬかもしれないことも、世帯を失うことになろうとも、恩愛の道をも打ち忘れた忠節のみを、何物にも勝る無二無三のものとすることをいうのである。
親子、兄弟、夫婦、朋友などに対してもこのようであることを忠う。しかし、忠という字は中心と書くことからも、道理を当然のこととせずに、みだりに心底を尽くしても忠ではないのである。
一、信というのは、すべての物に真実誠のあることで、偽りやよこしまなことが毛頭無いことをいう。
もし表面上は真実であっても、心底に少しでも偽りやきれい事があったならば、信ではない。
信は五行における土の理である。四季のいずれにも土用があるように、仁にも義にも忠にも、信が無ければ仁ではなく義ではなく忠ではないのである。
右に述べた仁義忠信は外に求めて行うものではない。
人々は五行の理を受け取ってその身に十分備えており、心に固有しているものである。
天においてはこれを理という。
人においてはこれを性という。
聖賢も愚人も少しも変わりなく、同じように備わっているのである。
しかし、聖賢は心正しく道理に明らかであるのに、愚人は心正しくなく道理にうといのはなぜであろうか。
聖賢は天から授かり備わっている性の正しいところに基づき従って行動するから、心正しく道理に明らかなのである。
愚人は六根の私欲に従って行動するため、心が暗く道が正しくないのである。このように心は同じ物であるが人心というのものと道心というものと二種類ある。
人心というのは、眼で物を見てはその色に染まり、耳で聞いてはその声に執着し、鼻で嗅いでは香りにふけり、舌で味わっては五味に耽り、その身は男女の欲にふける。
すべて六根の私欲に任せて、道理に外れていようとも、しばらくの間自分の身にさえ良いと思われる事ならば、それをしようとする。これが人心というものである。
この人心に任せて行動する時は、自分のために良さそうに思っても、後に必ず身の害となり、最後には大悪事となるのである。
古歌に、身を思う 心と中をたがわずば 身には心が徒となるものと詠まれているのもこの心のことである。
身を思う心がかえって徒となるのはなぜかといえば、天の理にそむいているからである。
愚人は我が身は天の理にそきながら神仏に祈る。これは叶わないことである。
それゆえどのようであるかといえば、孔子曰く、罪を天に穫(か)って祈ることはできない、と。
朱註に曰く、天はつまり理である。その尊さは並ぶものが無い。
その奥竈(かまどの神)は理に逆らって比べられるものではない。つまり理に逆らえばすなわち罪を天に穫る。どうしてその奥竈に媚びることができようか。よく祈ることで免れるのである、と。神は正直な頭に宿るものであるから、どうして非礼を受けようか。
また道心というのは、眼に色を見ても不道の事は見ないでおこうと思い、耳に声を聞いても不道の事は聞くまいと思い、身に触るであろう事を思っても、みな道に叶わず、礼をもってしないことは、決して行わない。
すべて、当分は身のために良くなくても、少しも私欲を考えずに、天性の正しいままに従って、私心の無いことを道心というのである。