もし、わずかな義理にかかわり、わずかな恥を耐えようとせず、自分のために身を滅ぼしたなら、これを禄族とも匹夫の勇ともいうのである。
ゆえに、主君から禄を受ける者は常に、人と話すごとに、このように言え。自分の命は、自分の思いのままに生きあるいは死ぬものではない。主君に売りわたしたからである。そのために、たとえ自分を踏み打つ者がいても、堪え忍ばなければならない。
つまり、比丘尼同然の自分である、と。
このように常に言う事に、少しも反してはいけない。このような者を打ちなさるのは比丘尼を打擲(ちょうちゃく)なさることであり、武士として比丘尼を打擲するのは会稽(かいけい)ではあってはならないからである。ゆえに自分を踏み打たれるようなことはなさいませんように、と常に真実に言うべきである。
法に曰く、わずかな義理に関わる者は栄名を成すことはできない、小さな恥をも嫌がる者は大功を立てることはできない、と。
孔子曰く、小事を忍ばなければ大謀を乱す、と。
韓信は淮陰の人である。若いとき常に、好んで長剣を帯びていた。
淮陰の少年たちが集まって言うには、彼韓信は長剣を好むけれども、心は臆病にちがいない。市中で恥をかかせてやろう、と一人の少年が韓信に向かって、死んでも構わなければ俺を刺してみろ、死にたくなければ俺の股の下をくぐれ、と言った。
すると、韓信は仰ぎ見てから頭をたれ、伏して股の下をくぐった。
人々はこれを見て大いに笑った。
韓信は大きな志を持っていたので、取るに足りない若者として死のうとは考えなかったのである。
後に果たして、漢の高祖に仕えて数万の兵の大将となり、少勢をもって多勢の敵と戦っても一度も敗れることなく、楚の項羽を敗り、斎の国の諸侯になったのである。
杜牧の詩に、「羞を包み恥を忍ぶ、これ男子」と作られているのもこの意味である。
一、常に酒色欲の三つを堅く禁制し、ふけり楽しんではならない。
酒色欲の三つは本来の自分の本心を奪う敵である。
古来、酒色欲にふけり、陰謀を漏らしたり害を蒙った先人たちは勝って数えるべからざるなり法に曰く、表を見て裏を察知できないことのないように、察知しておきながらこれをおろそかにしないように、と。
論語に曰く、人は遠慮がなく、必ず近憂あり、と。
(略)
この所を忍心と題すること。
中華ではこの術を名付けて「間」と言い、「諜」と言い、「細作」と言い、「游偵」とも言う。
本邦において中国での呼び名を変えて、刃の心と書く字をもって名としたのには深い意味がある。
この意味を悟らないでは、この道に足を踏み入れることさえ難しい。
そこで忍と名付けられた意義を著して「忍心」をこの題名とする。
そもそも、「忍」の一字は刃の心と書く。このような字をもってこの術の名とするのはどうしてであろうか。この術全体が武勇を主旨とするからである。そのため、この術に志す者はひたすら武勇を心掛けるべきである。
武勇を心掛けるにも掛け方がある。その心掛け方を知らなければ、心掛けても無益である。
その心掛け方というのは、血気の勇を捨て去り、ただ一筋に義理の勇を心掛けるのである。同じ武勇と言っても義理の勇がなければ君子の勇ではない。血気の勇というのは、一時の憤怒によって剛強を働かせても、次第に怒りが収まるに従って、いつまでも剛強の働きを心根に保つことができない。もし、心根に達して剛強を働かせても、もともと血気に乗じて起こった武勇であるから、大抵は自分の意志を通して勝とうと思ういきどりだけである。
そのため、一貫した思慮もなく身をまっとうするための備えもないので、我が身のみを損ない、敵を滅亡させることなどできないのである。
昔の人を考えてみよ。血気の勇を起こした人で一人でも難を逃れ、全敵を滅亡させた人があるだろうか。
だからこそ仲尼や子路が血気の勇を戒めて、自ら暴虎馮河(ぼうこひょうが)して死んでも、悔やまない者には、くみしない必ずや事に臨んでおそれ、陰謀を好んで成功させようとする者である。学ぶ者は詳しくこれを知っておくべきである。
さて、義理の勇とは義理重々つまりつまってやむを得ず起こす勇である。この勇はいつまでも冷めることなく、ことに私心が無いのでまず自分の欲心にかち、前後を思案し決定して、なおかつ「必死であること、即ち生じること」というのを心の守りとして働くので、我が身をまっとうして敵を倒すのである。これゆえに、軍讖にも柔よく剛を制す、弱よく強を制す、というのである。さて、義理の勇を心掛けるには道がある。仁義忠信をよく知りよく行おうと思わなければ、義理の勇は起こすことができない。
仁の道は言うに及ばず、義忠信の道も広大なものであるから、筆舌の及ぶところではないが、初学の糸口としておおよそのところを書かせていただく。
一、仁というのは温和慈愛の道理であって、心はまろやかに潤い、和やかで何事にも憐れみ、恵みの心を持つことをいうのである。
しかし、罪ある人を殺すのも、一人を切り落とすことで万人を救おうという心から起きることであるから、これもまた仁心である。仁は人なり、とは注釈して仁心の無い者は人ではないということである。人の恩を忘れず、親に孝行するのも仁の心である。
一、義というのは断制裁割の道理であり、その時々の理によって変化し、時所の良い道理に従って行うことをいう。