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本物の忍者はこの地から生まれた

術問答 目録(つづき) 3(じゅつもんどう もくろく(つづき)3)

 特によく忍術を用いられた将は、伊勢三郎義盛・楠正成父子・武田信玄・毛利元就・越後謙信・織田信長公といわれる。
 中でも、義盛は忍びの事を歌百首に詠んで残し、今に伝わっている。

 楠正成は、軍法の極意ならびに忍びの術を六つに分けて書き記し一巻にまとめて深く秘密にしていたが、兵庫で討ち死にした時、正行に伝えよと言って恩地左近太郎に渡して、後に伝えたのである。故にこの書を楠の一巻の書という。
 義盛・楠父子・信玄・元就・信長公・秀吉公など我が国の名将はいずれも忍術を用いて勝利を得たこと勝ちて計るべからず。

 問うて曰く、この術が広く天下に用いられたことは聞いたが、主に伊賀甲賀が特に忍びの名門として有名なのは何故か。
 答えて曰く、昔足利将軍尊氏卿が天下を治めた後、その子孫が続けて天下の武将の地位に就いた。しかし、政治はうまくいかず、上下の順序も定まらなかった。

 官職は既に乱れており、兵革(へいかく)が止むときもなかった。あるいは征伐する者が諸侯から、また太夫から出てきて国内の平安な時がなかった。特に、尊氏から十三代目の将軍光源院義輝公の時に至っては、ますます身分の上下もなく、つまり綱常三綱(こうじょうさんこう)《君臣・父子・夫婦の道》と五常《仁・義・礼・智・信》・治法もみな滅び去り、壊乱ここに極まったのである。

 また、五畿・七道ことごとく争い、四夷(しい)八蛮に至るまで乱れていない者は無く、争っていない場所も無かったのである。それでも他の国にはみな守護がいて、その国の民はこれに従っていた。
 しかし、伊賀甲賀の者共は守護を持つことなく、それぞれ自分の力で知行の地に小城を構えて自由に振る舞っていたのである。
 守護大将がいないので、政道を治める者もいない。そのため互いに、人の土地を奪い取ろうとして闘争に及ぶことが幾度あったことであろう。

 ゆえに、朝夕に合戦の事のみを仕事として、武備こそが生活の中心であった。互いに便隙をうかがう代であり、忍び入り城郭を焼き、あるいは敵の内意を知り、中傷などをもって敵の和合を妨げ、あるいは襲って夜討ちなどをし、あるいは敵の不意を突いて千変万化の謀計を為すため、兵士はいつも馬の鞍を外さず、身分の低いものは常に足半(あしなか)を太刀の鞘にさして、一日も安心していることはない。

 それ故、少勢をもって多勢に勝ち、柔軟をもって剛健に勝つためには、忍びを入れるのが一番であるということで、どの兵士も普段から忍びの手段を工夫し、隠忍を下人にも習わせたのである。
 こうして、下人どもの中に十一人の隠忍の巧みな使い手が出来上がり、自国他国を選ばず忍び入って人の領地をかすめ取り、人の城を抜いて、勝利を得ることは掌に転がすように簡単であった。

 これによって隣国は多勢にして強い大名が多くいたといっても、伊賀の地を奪い取ることはなかった。信長公ほどの強将といえども伊賀において敗北されたのである。
 ましてその他の大名は誰もこの国には望みをかけなかった。小国で人数が少ないだけでなく、大将も持たない寄合勢といい、どうみても頼りない様子であるのに、隣国の大将のある大軍に一度も負けたことがない。勝利を得たのはなぜか。それは皆忍術の功績ではないか。このような理由をもって伊賀を忍びの本拠とするのである。

 問うて曰く、十一人の隠忍の使い手の名を聞きたい。
 答えて曰く、野村の大炊孫太夫・新堂の(金藤)小太郎・楯岡の(伊賀崎)道順・下柘植の木申(太郎)・小猿(八郎)・上野の左高場左兵衛(四郎)・山田の(瀬登)八右衛門・神戸の小南・音羽の城戸・甲山太郎四郎・同太郎左衛門。

 これら十一人でなくてはならないといっても、道順の一流は四十八流になったので当代忍びの事を言う者は、伊賀甲賀に忍びの流儀四十九流有りという。

 問うて曰く、道順の一流が四十八流になった由来は何か。
 答えて曰く、佐々木義賢入道抜関斎承禎というのは近江の国の守護であった。その幕下の士に百々(とど)という者がいた。
 反逆を企て同国の澤山の城に立てこもったのを、承禎は数日間攻めてみたが、この城は堅固の地にあって落城しそうもなかった。そのため伊賀の忍びの名人を雇い、忍び入れようと計画し、かの道順に相談した。

 そこで道順は伊賀の者四十四人、甲賀の者四人、合計四十八人を召し連れて承禎の守山へ赴いた。
 ところで、伊賀の湯船という里に平泉寺があった。その近くに宮杉という陰陽師(おんみょうし)が住んでいた。道順がそこに立ち寄り、忍びの吉凶を占わせたところ、宮杉は吉と占った。そのうえ、門出を祝おうと腰折歌一首を詠んだ。
 「澤山に百々となる雷もいかさき入れば落ちにけるなり」と詠んで道順に贈った。
 道順の名字が伊賀崎というので、それを掛詞にしたというのである。

 道順は「これはめでたい」と喜んで鳥目、百疋を宮杉に与えた。
 その後承禎の所へ行って合図・約束を決め、程なく妖者という術で澤山城へ忍び入り内側から火を放ったので、承禎は外から急襲した。
 百々の軍勢は、火を消そうとすれば敵が乱入し、敵を防ごうとすれば火勢いよいよ強くなって、どうすることもできずに、ついに敗亡したということである。

 その後道順が召し連れて行った四十八人の者共は皆それぞれの流派を立てて、何々流と名付けたことにより道順の一流は四十八流に分かれたといわれている。

 問うて曰く、昔から今までの間で、伊賀甲賀で忍びの上級者と言えるのは右の十一人ならびに四十八人の者共なのか否か。
 答えて曰く、たいてい他の芸では、上達すれば必ずその者の名が外に顕れてくるものである。その名が世に知られているほどの者は必ず一流の者である。しかしこの術は他の芸とは違い、上手と言われているのは中級の忍者であって、良いものではない。ただ、上手も下手も人に知られることなく、切れ者であるのが上級の忍びとされるのである。古語に、水は浅ければ音を立てるというように、深淵の水には音もないものである。

 谷川などの浅い水が音を立てるように、かえりみると、謀計の深くない中級の忍者の方がかえって有名になる。どうしてそのようになるかといえば、謀計深き一流の忍者は、まず平生は忍者であることを深く隠して顕わさない。ただ普通の兵士と同じようにしているか、または隠者・浪人などの様子で、忍術など知っている素振さえ見せずに普通の人のように振る舞っているのである。

 もし非常事態が起こって家老達が出頭し集まることがあっても、そのことを知らせずに大将一人とのみ極秘に謀り、合図を決め、敵城へ入って淵玄微妙の謀略を巡らし、敵方の気勢がみずから衰えるようにするのである。

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忍者の里 伊賀(三重県伊賀市・名張市)
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