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本物の忍者はこの地から生まれた

術問答 目録(つづき) 2(じゅつもんどう もくろく(つづき)2)

 答えて曰く、敵の便隙を窺い、危険な計画を用いて忍び入るその根本は、皆その心が堅貞であり、たとえるなら刃の堅く鋭い様子と同じなのである。

 なぜなら一心が刃のごとく鋭く堅くなく、鈍くて軟弱であれば、たとえどんな謀略を、こちらで巧みに計画しても、敵に近づく時に心が怖じけて、謀計は実行できない。
 もし敵に近づくことができてもその心は落ち着かず、言葉は乱れその謀略は表面に顕れて、ついには敵に捕われて自分が死ぬことになるだけでなく、大将の災いとなることは瞭然である。

 その故に敵の便隙をうかがい忍び入ることは、刃の如き堅貞なる心があって初めてできることなので、我が国において異邦からの名を改めて、刃の心と書く字をもってこの術の名とするものである。
 また、敵に近づくことが肝要であるが故に、伊勢三郎義盛の百首の忍歌にも
「忍びには習いの道は多けれど先ず第一は敵に近づけ」
と、詠まれている。

 問うて曰く、いま右にそのいわれの述べられた忍びという名は本邦でも色々変わり、夜盗・すっぱ・簷猿・三者、饗談などがある。すっぱ・夜盗などというのは伊賀・甲賀で古くから言い習わされたことなので使われるのであろう。

 簷猿というのも敵の内証を見る役であることから、忍びといわずに簷猿というだけである。三者饗談とはどういう意味で名付けられたのか、いわれは何か。
答えて曰く、甲斐国の守護武田信玄晴信は名将である。忠勇にして謀計の巧みに行える者を三十人抱え置いて、禄を重くし賞を厚くして(重用し)間見・見分・目付と三つに分け、その総称を三者と名付けて常々心を通わせておき、軍事の要に用いられた。隣国の強敵と戦って一度も不覚を取らなかったことは全て三者の功績であると待遇なさったのである。
 信玄の詠歌に
「合戦に三者なくして大将の石を抱いて淵に入るなり」
「戦いに日取方取さしのぞき三者をやりて兼ねて計らえ」
とある。
 織田信長公は饗談と名付けて用いなさった。今川家の大軍に微妙なる勝利を得られたこと、尾州犬山・三州鵜殿の城その他隣国他国の堅城強敵共を、力も入れず兵士も損なうことなく手に入れられたことは勝ちは計るべからず。これらは皆饗談の功績である。
 越後の謙信なども全勝の功績はこれにありと、重く用いられたということである。
 このように名将がその名を失わないで、色々な名前を付けて忍びを召し抱え、仕えさせることは、実に微妙な利益のあることなのだ。大将であろうとする人は忍びを肝要とされること必定である。

 問うて曰く、忍びの道は伏羲の時代に始まり、黄帝の代に盛んになったと右に述べられたが、黄帝より後の世でこの道が今に伝来した由来はどのようなものか。

 答えて曰く、私は学もなく、才能も未熟であるので詳細は知らないが、大体のところ伝えられているのは、黄帝より後は忍術を知っている者が少ない。この道を用いる者が希であったとはいえ、殷の時代になって伊尹(いいん)という人がこの道を修得し、殷の湯王に仕えて夏の桀王へ忍び入り、桀王を亡き者とした。

 その証文は孫子に次のようにいわれている。
「殷之興也、伊摯在夏」
 註にいわれているのは、殷は湯が天下を治めた時の名で、伊摯とは伊尹のことであり、夏は夏王桀である。
 昔殷の国が初めに興った時、人々は暴君が伊尹を南巣(なんそう)に追いやったと思っていた。

 しかし、「伊尹が五度桀に就き、五度湯に就く」、伊が間者として働いたことを知らない。その後周の太公望という人に伝わり、彼が忍術の書七十一篇をあらわし世に伝えた。その証拠は、太宗問対に「太子靖曰く、太公の言は七十一篇である。兵をもって究められないように云々」、註に「言とは間事のであると云々」間事は、つまりここにいう忍びである。

 この書は我が国には渡来しなかったのだが、芸文史には「太公の謀・言・兵の三つは六韜の中に皆記載されている」とある。この言葉から考えると、六韜に忍びの事全く記載されていないこともなく、おそらく七十一篇の間事も載っているにちがいない。

 しかも太公望が敵の紂王へ忍び入り、紂王を滅ぼしした事は正確に孫子の用間の篇に見られる。
 用間の篇に曰く「周之興也。呂牙右敵云々」、註にいわれているのは、周は武王が天下を治めた時の名である。

 呂牙は太公望のことで、敵というのは敵王紂である。太公の言に、周の国が初めに興った時、人々は皆ただ牧野(ぼくや)の誅のことしか知らなかった。つまり、呂牙が敵中にあってはじめに酒、賄賂を献じ自由自在の陰謀の間事を為したことは誰も知らない、といわれているのが証拠である。

 その後、呉の孫子に伝わり、五間といって五つの忍術をうまく編み出し、これを用間の篇に著したのである。
 その他、春秋・戦国・三国・唐・五代・北宋・南宋・当代の名将も皆忍術を用いない者はいない。
 しかしながら、太公望・孫子の忍術を伝えたのは、前漢の張良・韓信の二人と思われる。その根拠は、太宗問対に李靖曰く「張良が学んだのは太公の六韜三略である。

 韓信が学んだのは穣苴(じょうしょ)、孫武である。しかし、大体が権謀・形成・陰陽・技巧・八十一篇謀・七十一篇言・八十五篇兵の三門四種の域を出ない云々」と。

 この三門の中の一門は忍術の事である。

 問うて曰く、我が国ではこの道はいつの時代から始まったのか答えて曰く、三十八代の帝天智天皇の弟君を天武天皇とおっしゃる。この御代において清光親王が反逆を企て、山城国愛宕郡に城郭を構えて籠城した時に、天武天皇の所から多胡弥という者を忍び入らせた。

 多胡弥は城内に侵入して火を放ったので、天武天皇は外から攻め込みなさって、その城はたちまちにして落ちたという。これが我が国で忍術が用いられた最初である。
 この事は日本紀に見られる。後世の将たる人でこの術を用いない人はいない。

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忍者の里 伊賀(三重県伊賀市・名張市)
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