【写真 藤林長門守の墓所(中央)】
三大上忍の一人と呼ばれ、北伊賀衆の頭領であった。
『冨治林家由緒書』によると、長門守の高祖は源頼朝の重臣泉親衡で、信州戸隠山に挙兵するが、健保元年(1213)に北条氏に敗れ湯船に居城を築いたと伝わる。
また、藤林家は六角義賢(承禎)と深く関係しており、『萬川集海』には承禎が近江沢山城攻めの際に伊賀衆の助力を頼み、楯岡道順以下11人の忍びが落城させた功績が記されている。
戒名が似ていることから喰代の百地丹波と東湯舟の藤林長門守が同一人物説があるがそれは小説の世界である。
長門守が上忍といわれる理由は、子孫保武が『萬川集海』を編纂したことと道順以下11人の優秀な忍者を使っていたからであろう。