【写真 稲増氏館跡 非公開】
稲増一族は北伊賀下友田で活躍した土豪であり、『伊乱記』にも雨請山の戦いで名が見られる。伊賀流火術に優れ、藤堂藩に召し抱えられた伊賀者であった。
『稲増家文書』には、治郎左衛門が藤林長門守冨治林正直の遺言により『萬川集海』六冊と『伊賀軍法之書』と譲り受け、冨治林直より忍術免許皆伝を受けている。つまり、伊賀者の忍術指南役であった。
『稲増家由緒書』によると、寛政5年(1793)には、鳥取に異国船が漂着の際の担当役となる。文化10年(1831)には、藤堂藩の伊賀者忍術指南役となる。
伊賀町川東の伊賀者であった澤村家所蔵のペリー来航の際に作成した狼煙筒には、東組の伊賀者5人の1人として列記され、稲増次郎兵衛の名が列記されている。