【写真 小堀勝之進由緒書】
彦根城博物館所蔵の「伊賀歩行由緒書」によれいば、小堀勝之進という彦根藩伊賀歩行衆がいた。彼勝之進は、伊賀歩行衆の筆頭に見える。40俵3人扶持。
勝之進は元祖は小堀勘六、小堀勘左衛門の倅で生国は伊州阿拝郡千貝村の侍とある。千貝村は旧阿山町千貝で柘植村の近い。
天正10年(1582)に権現様(徳川家康)が堺浦に着き御見物、御宿泊。その後、大和で一揆に遭う。伊賀に入り宿泊。その際に伊賀の侍が忍術火術を熟得していたので護衛を頼む。勢州白子まで案内し尾州鳴海で家康の配下になった。
そして、大坂の陣でも活躍した。正保3年(1646)からは、勘介が貞享2年(1685)まで歩行衆として勤め、2代目勘左衛門が跡を継ぐとある。
伊賀歩行の職務は江戸時代太平の世に於いては、朝鮮人通信使が来日した際に世話役、参勤交代で江戸詰役、大和一揆の探索を命じられた。忍者本来の探索、警備の仕事は藤堂藩と同じである。