【写真 正月堂】
島ヶ原党は源頼政家来の渡辺競一族の後裔と称し「三星下一文字紋」の家紋を同じくした。
元弘元年(1331)に笠置山合戦で後醍醐天皇側として参戦した。その際に下賜された菊紋陣幕と太刀は島ヶ原党の象徴として保存されたと云う。
『太平記』に、「追っ手の木戸、西の坂口は伊賀伊勢の兵千余騎に堅めたり」という伊賀節の中心は地理的にも島ヶ原党であったことは、考えられるだろう。
長享元年(1487)の伊賀・甲賀の忍者が活躍した鈎の陣にも、島ヶ原党も伊賀衆の一員として参戦した。
『勢州軍紀』や『小川新九郎聞書』には、天正10年(1582)、本能寺の変で信長が倒れると、伊賀地侍衆は蜂起したが、この時鎮圧に向かった織田勢は島ヶ原党の激しい抵抗にあい深追いを避け兵を引き上げたとある。
これを第3次天正伊賀乱とも呼ぶ。