【写真 霧生城】
「きりゅう」と読む。伊賀は霧がよく発生する。忍者と霧は切り離すことは出来ない。「遁甲」には霧は欠かせないのだ。
霧生は伊勢国との境にあり特に霧がよく発生したのでこう呼ばれた。
初見は東大寺が朝廷に黒田悪党追捕を訴えた弘安5(1282)年『東大寺衆徒等申状案』に「・・伊賀国黒田坂山賊、当国霧生之夜討等・・」とある。
戦国期には伊勢北畠諸侍城館が霧生、諸木、種生、高尾の山間部に集中していた。
『伊勢国司諸侍役付』に、霧生城主伊賀口之鎮の福山出雲守。同城代伊賀国加番の福山越後守。同加番従騎の刈谷左衛門亮、伝五郎、丸山城主丸山半蔵とある。
天正伊賀乱では伊勢地口で戦った南伊賀衆は北畠氏残存勢力である福山氏、結城氏等の歴戦の郷士達が信長軍に果敢に立ち向った。