【写真 忍町の武家屋敷】
今なお”忍”の名が残る上野市三之町筋南側には、かつて藤堂藩伊賀者の屋敷があった。『宗国史』には雑色廠とある。
寛永(1624〜1643)や寛文(1661〜1672)頃の絵図には、三之町筋の南の道が外馬場と記され、その中央部南側の重臣の下屋敷一軒分足らずの地域に伊賀者10人ほどの名(黒岩安右ヱ門、服部七右衛門等)が、記されており、その一部に伊賀者屋敷があった。
伊賀者は参勤交代での江戸詰と伊賀詰めの2班に常時分けられ、忍町は伊賀詰め伊賀者の居住地であった。
しかし、伊賀者屋敷は享保頃(1716〜1735)の絵図にはもはや見あたらず、中期以後は加判奉行の役宅、安政5年(1776)以後は普請奉行宅に詰めたと思われる。