【写真 上野市西連寺にある墓】
『寛政重修諸家譜』によると藤堂采女元則は服部半蔵正成とは同族の予野生まれ。
その後紀州土豪保田氏の保護を受け、藤堂高虎が今治に居た時代より高虎に仕え、慶安4年(1640)に上野の城代家老を世襲する藤堂采女家を興し七千石を与えられている。
采女家が城代職になり藤堂姓を許されたのは伊賀地侍の名族服部家の出自故、伊賀地侍達の懐柔の目的であったと云われる。
『伊賀付差出帳』には、元則、元住は伊賀全土の郷士を調べ登録し、鉄砲組や忍び衆等の組を作った。藤堂采女故郷碑は服部半蔵故郷碑、伊賀乱供養碑と共に予野の千賀地城址にある。