伊賀忍術

 忍術には25流派あるといわれているが、その中で伊賀流と甲賀流が群を抜いて優れている。伊賀と甲賀は隣接していて、その術技もほとんど同じだが、伊賀は甲賀に比べて特に呪術に秀でていた。

 伊賀で呪術が発達したのは、伊賀が盆地で古代から都からの亡命者が多かったからである。古代大和朝廷の呪術をつかさどっていた物部氏や、奇術や軽業などの諸芸を得意とした服部氏などが伊賀に住みつき、呪術を伝えたと考えられる。

 忍術は、戦乱の世に必要とされて発達したため、武術、謀略、破壊工作などが含まれるが、心理学、薬学、医学、天文学、呪術、占術など、戦いに直接必要でないものが圧倒的に多い。忍術は、まさに生きるための知恵と技術の集大成であったのである。

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正忍記

延宝九年(1681)藤一水子正武によって著された忍術の三大秘伝書の一つ。 紀州流(楠流)忍術の技術を諸伝として、その用術上の心構えを説いている。

正忍記

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忍秘傳

永録三年(1560)服部半蔵正成によって著された忍術の三大秘伝書の一つ。 伊賀・甲賀流の伝書として人具を分かり易く説いている。

忍秘傳

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萬川集海

延宝四年(1676)伊賀の藤林保武によって著された忍術の三大秘伝書の一つ。 甲賀・伊賀忍術四十九流派の秘伝・忍具を体系的に詳述した忍術の全てを集大成したものである。 1789年に甲賀者によって幕府に献上された。本書には延宝四年甲賀隠士藤林保義序とある。

萬川集海

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結縄 ゆいなわ

「けつじょう」とも読む。暗号の一つで縄に結び目をつけ軒下にぶら下げておく。結び目の形や数によって文字や文書を作った。

結縄

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伝達方法

 昔の情報の伝達方法は「人から人へ」が基本で、歩く速度と情報の伝達速度は同じであった。そのため、急いで知らせたい情報は、あらかじめ相手と約束事を決めておいて合図で知らせた。合図には、鐘、太鼓、ドラなど音を使うもの、狼煙を使うもの、旗を使うものなどがあった。

 忍者は、情報の伝達速度よりも、第三者に知られずに、確実に仲間だけに情報を伝えることを優先した。そのために、忍者は情報を暗号化した。暗号化の方法として、石を並べて文字を表現する「石置き」、木の枝を折る、米粒を青、黄、赤、黒、紫に染めた五色米をまいて色の組み合わせで知らせる、結んだ縄を軒下にぶら下げ「先に行く」「北に行く」などを結び目の形で知らせる「結縄文字」などがあった。

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火術・火縄

 忍者は火術を得意としていた。鉄砲と共に種子島に火薬が伝来する以前に、すでに甲賀では大陸からの渡来人が火薬を製造していたといわれている。

 伊賀と甲賀は、もぐさ、ショウノウ、馬ふんなどの火薬の原料が手に入りやすく、火薬の知識が豊富な渡来人も多かったため、火術が飛躍的に発達した。忍者は、戦国時代まで輸入に頼っていた火薬の原料硝石も、神社の縁の下の古い土などから、独自に採取することができた。

 忍者は鉄砲も得意としていた。忍者が戦国大名に重用されていたのは、当時の最新兵器であった、火薬と鉄砲の専門知識を持っていたからでもある。

 織田信長を鉄砲で狙撃しようとして処刑されたのも、甲賀や伊賀の鉄砲の名手だった。江戸時代になると、甲賀流砲術は「自知流」、伊賀流砲術は「威風流」「柘植流」として伝えられ、江戸時代の中期以降、忍者は鉄砲部隊として活躍した。

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睡眠

忍者は、忍びに適した日や、人の「睡眠」についての研究を重ねた。月明かりのない日や、人の眠りが深い日を選んで忍ぶと、発見されずに目的を達成することができるからだ。
敵が熟睡しているかどうかは、「聞き筒」という筒で寝息を聞いて確かめた。忍者は万一の襲撃の時にも命だけは助かるように、心臓を下にして寝た。

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忍者の一日

 忍者であることをカモフラージュする為、薬草の栽培、また実益をかねて忍者たちは普段農業に従事していた。そして薬草からさまざまな薬を作るのも日課であった。その中には武器に必要な火薬の製造という大切な仕事も含まれていた。そして修行。体を鍛え、記憶術を研き、寝るときは音をたてず、左向きに横になったり。斬り付けられても心臓だけは守るために。忍者にとって生活すべてが修行だった。

薬研

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忍者屋敷

 伊賀・甲賀はもちろん、全国の忍者ゆかりの地には忍者屋敷がある。

 忍者屋敷は外観は平屋造りで内部は三階建てになっていて、隠し部屋や抜け穴、落とし穴など、いろいろな工夫が凝らされている。

 忍者はこの屋敷の隠し部屋で、火薬を調合した。忍者屋敷に仕掛けがしてあるのは、当時の最先端軍事機密であった火薬の調合法を盗もうとして侵入する敵を撃退するためである。忍者屋敷は、忍者の住まいであると同時に、機密の「火薬研究所」でもあった。

忍者屋敷

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七方出

 忍者は敵地に潜入する時、正体と目的を隠すために変装した。変装は、「虚無僧」「出家」「山伏」「商人」「放下師」(曲芸人)「猿楽師」「常の形」(農民や武士)の7つとされ、忍術伝書では「七方出で立ちの事」または「七化」と呼ばれた。

笠

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「雪が降ると伊賀者が泣く」という言い伝え

春日局の頃にあった話です。
家康の伊賀越えに功績があった伊賀・甲賀の忍を江戸城警備として徳川家は召し抱えました。そのうち甲賀者は大奥の外を、伊賀は大奥の内側の担当になりました。ところが外界から隔離された女の牢獄である大奥では将軍以外男子禁制です。ですから汚れた外の男の姿を見せないよう、伊賀者は後ろ向きで手を繋いで輪になり、女たちに顔を見せないように警護したそうです。これはかなり苦行だったらしく、さらに雪が降る寒い日には意地悪で陰湿な女たちが伊賀者たちに雪をぶつけて苛めることで外に出れない鬱憤を晴らし悦に入ったと言われています。当然振り返ることも怒ることも許されない伊賀者たちは雪が降らないことを祈るしかなかった、という悲しいお話です。

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伊賀流忍者服装着装方法

伊賀流忍者服装着装方法

忍者服装着装

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HOW TO WEAR AN IGA STYLE NINJA COSTUME

HOW TO WEAR AN IGA STYLE NINJA COSTUME

how to wear(ninja)

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忍者衣装の着方

一般的な忍者衣装の着方をご説明します

忍者衣装の着方

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忍者の森

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赤目四十八滝のふもと、隠れ里の山中に忍者の修行の場があります。
忍びの道具を使った修行や隠形術・登り術・飛び術・歩法・隠れ術・みずぐもの術・符牒の術などの修行を体験して伊賀流忍術の奥義を極め、免許皆伝の書を手に入れよう。

■忍者の森

http://www.akame48taki.com/asobu/ninjanomori.html

 

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役の行者

役行者小角、役優婆塞とも呼ばれる。
「鬼神を思うままに使い、水くみや柴を採らせ、命に従わなければ呪術で縛って動けなくした」と噂され、遠流の罰に処された。

また、孔雀明王の呪法を修め、霊術を身につけ天を飛んだという話も残っている。

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伊勢三郎義盛

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【写真 伊勢三郎義盛の碑】

武蔵坊弁慶と並ぶ義経四天王の一人。

『正忍記』に源義経が忍びを使ったとある。これは伊勢三郎義盛一党のことと考えられる。別名、義経が会った時は、焼下小六という名で鈴鹿山の山賊頭領であった。

『伊水温故』に、幼少の頃、村之長である中井と云う者に育てられ、この村を三郎村と呼んでいたのだが、伊勢三郎義盛の名よりこの村を三郎村より転じ才良と呼ぶようになったとある。

伊勢三郎も忍者の祖とされ、特に『義盛百歌』という忍者の心得を歌にして伝えたものがあり、『萬川集海』にも多数引用されている。一例をあげれば「忍びには習いの道は多けれどまず第一は敵に近づけ」などの歌があり、忍術のポイントを歌にし非常に興味深い。

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比自山砦

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【写真 比自山砦跡】

天正伊賀の乱では北伊賀の地侍達が立籠もり最も果敢に戦った比自山風呂谷の合戦は有名である。

『三国地志』には「比自山或いは愛宕山とも云う。観音廃堂の址あり、天正乱の時に本郡の処士に屯す」とある。

比自山の頂上にはかつて観音寺があり、此処を本丸にし土居を築き、数重の柵や逆茂木をめぐらし門戸を構え櫓を設けた。

山頂には櫓を二カ所設け南を朝屋丸といい福喜多将監が、北を長田丸と呼び百田藤兵衛が守った。蒲生氏郷、筒井順慶軍が攻撃し激しい攻防戦をくり返したが後、落城し火を放ち田山、柳生に逃げたと云う。

「大聖歓喜天」の碑から、比自山砦がよく見える。

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天正伊賀の乱

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藤林保武

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【写真 藤林保武の墓】

『萬川集海』の著者藤林佐武次保武は三代上忍の一人である藤林長門守の孫にあたる。

『冨治林家由緒家』によると、冨治林保武は東湯舟から上野万町に移り墓所が西念寺にある。別名は伝五郎、又の名を保道あるいは保高と云う。

元禄14年(1701)に正式に伊賀者に召された。しかし高久公の時代に藤堂長門という代官がおられたので、藤林の姓を遠慮して、冨治林と改めたと伝わる。

長門守の孫の第4世冨治林正直は『三国地志』の編纂で藤堂元甫に命じられ伊賀編を担当している。

冨治林正直の遺言により伊賀者稲増次郎左エ門に『萬川集海』6冊と『伊賀軍法之書』を送ると言う目録があり、さらに第5世冨治林直は稲増次郎左衛門に忍術免許皆伝を許している『稲増家由緒書』。

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