三重県と奈良県の県境にある城山の尾根伝いに築かれた城址(城跡)で、この城は安土桃山時代以降の石垣や天守閣を持つ城ではなく、自然 地形を成形した中世城館でした。

三重県と奈良県の県境にある城山の尾根伝いに築かれた城址(城跡)で、この城は安土桃山時代以降の石垣や天守閣を持つ城ではなく、自然 地形を成形した中世城館でした。
伊賀地侍衆の集会場のひとつとされ、南北朝時代には既に開基されていたと伝わっています。岡山の頂上付近に本堂があり、参道には「三体地蔵」等の石仏が数多く点在。戦国時代には本堂だけでなく回廊や仁王門、庫裏(くり)があったとされますが、天正伊賀の乱の際に焼失したと伝えられています。
天正9(1581)年9月27日、近江国日野の城主「蒲生氏郷」(がもううじさと)を大将とした織田軍7,000の兵は、玉瀧口から攻め込み伊賀衆が籠る「雨乞山城」を攻めました。雨乞山城は、その名の通り雨乞いの山を城に転用したもので、山頂を中心に曲輪(くるわ)を配置し、山城に仕立てたものでした。
上野公園にあった寺院で、伊賀衆の結集の場であったと伝えられています。記録によっては「平楽寺城」と書かれたものもあり、城としての機能も兼ね備えていたと考えられています。上野公園内に点在する五輪塔や石仏は、ここが寺院であったころの面影を偲ばせています。
天正7(1579)年9月17日、青山の滝村(たきむら)に住む伊賀衆、滝三河保義(たきみかわやすよし)は青山峠を越えてきた敵将、柘植三郎左衛門(つげさぶろうざえもん)尉の首を打ち取る程の活躍をしたにも関わらず、討ち死にしました。それを悲しんだ弟の宥海法印(ゆうかいほういん)は、本能寺の変後、兄を供養するためにこの寺を建てたと言われています。
天正7(1579)年9月17日、織田信雄は8,000の兵を率いて阿波口(長野峠)から伊賀の国へと攻め込みました。地の利のある伊賀衆は、迫り来る夕闇を利用して弓や鉄砲、槍で応戦。信雄軍はやむなく長野(津市美里町)まで退却したと言われています。
伊賀の隣国、伊勢を治めていた北畠家。「北畠具教」(きたばたけとものり)は織田信長との戦いに降伏し、実質的な権力を織田家に奪われてしまいます。その後、具教は、天正4(1576)年11月25日、信長と信雄の命を受けた旧臣「長野左京亮」(ながのさきょうのすけ)らに襲撃され、北畠家は断絶。北畠神社は、江戸時代前期に北畠家の末裔が祠を建てたのがはじまり。神苑の一部には北畠家の居舘の一部であった庭園が今も残り、戦国武将らしい素朴で、野趣にあふれた枯山水を見ることができます。
藤堂藩に伊賀者として仕えた竹島氏の居城。竹島三太夫が伊賀者として、伊勢の一揆や異国船の探索を行ったとの記録が残されています。また、竹島氏は、松尾芭蕉の姉の嫁ぎ先でもあります。
忍術名人・城戸弥兵衛が生前崇敬していたといわれる役行者像が残されています。城戸は織田信長を2度にわたって狙撃し、いずれも失敗しますが、捕まることはありませんでした。
浄土宗の寺で、藤堂藩に伊賀者として仕えた柘植氏の菩提寺。天正伊賀の乱で一度は消失しますが、柘植氏が再興しました。柘植三之丞清広は、徳川家康の伊賀越えの際、護衛を務めました。
標高約600mにある伊賀市西山と甲賀市信楽町多羅尾を結ぶ峠。徳川家康が、伊賀越えの際、伊賀衆・甲賀衆の案内で超えた峠といわれており、小説『梟の城』の冒頭にも登場しています。
第二次天正伊賀の乱の際、北部の伊賀衆が立てこもった砦跡。織田勢に対し、城主の山内左衛門尉をはじめとする伊賀衆はゲリラ戦法で応戦しますが、落城しました。麓には山内氏の石碑が建てられています。
第二次天正伊賀の乱の際、城主であった福地伊代守は、織田方に与し、侵攻の手引きをしました。松尾芭蕉が福地氏の出身であったことから、現在は芭蕉公園として整備されています。
服部半蔵一族の氏神。御祭神は天兒屋根命(アメノコヤフネノミコト)・經津主命(フツヌシノミコト)・武甕槌命(タケミカヅチノミコト)。境内には、「一里は皆花守の子孫かや」の芭蕉句碑も残されています。