役の行者

役行者小角、役優婆塞とも呼ばれる。
「鬼神を思うままに使い、水くみや柴を採らせ、命に従わなければ呪術で縛って動けなくした」と噂され、遠流の罰に処された。

また、孔雀明王の呪法を修め、霊術を身につけ天を飛んだという話も残っている。

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伊勢三郎義盛

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【写真 伊勢三郎義盛の碑】

武蔵坊弁慶と並ぶ義経四天王の一人。

『正忍記』に源義経が忍びを使ったとある。これは伊勢三郎義盛一党のことと考えられる。別名、義経が会った時は、焼下小六という名で鈴鹿山の山賊頭領であった。

『伊水温故』に、幼少の頃、村之長である中井と云う者に育てられ、この村を三郎村と呼んでいたのだが、伊勢三郎義盛の名よりこの村を三郎村より転じ才良と呼ぶようになったとある。

伊勢三郎も忍者の祖とされ、特に『義盛百歌』という忍者の心得を歌にして伝えたものがあり、『萬川集海』にも多数引用されている。一例をあげれば「忍びには習いの道は多けれどまず第一は敵に近づけ」などの歌があり、忍術のポイントを歌にし非常に興味深い。

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比自山砦

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【写真 比自山砦跡】

天正伊賀の乱では北伊賀の地侍達が立籠もり最も果敢に戦った比自山風呂谷の合戦は有名である。

『三国地志』には「比自山或いは愛宕山とも云う。観音廃堂の址あり、天正乱の時に本郡の処士に屯す」とある。

比自山の頂上にはかつて観音寺があり、此処を本丸にし土居を築き、数重の柵や逆茂木をめぐらし門戸を構え櫓を設けた。

山頂には櫓を二カ所設け南を朝屋丸といい福喜多将監が、北を長田丸と呼び百田藤兵衛が守った。蒲生氏郷、筒井順慶軍が攻撃し激しい攻防戦をくり返したが後、落城し火を放ち田山、柳生に逃げたと云う。

「大聖歓喜天」の碑から、比自山砦がよく見える。

天正伊賀の乱

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藤林保武

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【写真 藤林保武の墓】

『萬川集海』の著者藤林佐武次保武は三代上忍の一人である藤林長門守の孫にあたる。

『冨治林家由緒家』によると、冨治林保武は東湯舟から上野万町に移り墓所が西念寺にある。別名は伝五郎、又の名を保道あるいは保高と云う。

元禄14年(1701)に正式に伊賀者に召された。しかし高久公の時代に藤堂長門という代官がおられたので、藤林の姓を遠慮して、冨治林と改めたと伝わる。

長門守の孫の第4世冨治林正直は『三国地志』の編纂で藤堂元甫に命じられ伊賀編を担当している。

冨治林正直の遺言により伊賀者稲増次郎左エ門に『萬川集海』6冊と『伊賀軍法之書』を送ると言う目録があり、さらに第5世冨治林直は稲増次郎左衛門に忍術免許皆伝を許している『稲増家由緒書』。

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神戸ノ小南

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【写真 神戸神社】

『萬川集海』に列挙された11人の忍術名人の1人。南伊賀では唯一の忍者であった。

文献としては菊岡如幻の『伊賀国忍術秘伝』、明和年間の岸勝明の『伊賀考』にも神戸の子南の名があるが活躍の記録としては文献にその名を探すことが出来ない。

『伊乱記』によると、神戸は戦国末に伊賀の土豪達が「漸く神戸の郷、天童山に集まり、各々評定して和談を調へ」と有り、上野の平楽寺とならび伊賀衆達の評定所の一つが神戸にあったので伊賀の土豪が集まっていた重要地であった。

また、神戸神社には今なお宮座が九座あり、それらの座は戦国時代より郷士が中心となって地域の指導的役割を果たしていたと考えられ、忍術名人の神戸の子南がいたのも納得がいく。

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上野ノ左

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【写真】

『萬川集海』に登場する11人の忍術名人の忍者。菊岡如幻が著した『伊賀国忍術秘法』の冒頭に『萬川集海』と同じく忍者の勇士として11人の名があり、「上野ニ左兵衛、高場氏、是に子細在り」とある。

上野は室町期より名がある。『伊乱記』には天正伊賀乱で比自山籠城勢揃の中に上野村の高場氏(馬場氏と記す写本もあり)の名があり、上野村では上野氏と並ぶ土豪であったことがわかる。

伊賀惣国一揆評定衆12名は、仁木義視を最後の伊賀の守護として迎え、上野平楽寺に殿館を造ったとある。

しかし、仁木氏も室町時代は先代の仁木太郎義覚が悪党化し服部氏らと共に東大寺領荘園を侵したこともあり、ある意味では忍者であったのであろう。

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式部塚

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百地丹波守と恋愛関係になったため、嫉妬に狂った本妻に殺された女性を弔った塚。この女性が式部の官職にあったため式部塚と呼ばれ、はさみを供えると夫や恋人との悪縁が切れるといわれています。

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百地砦跡

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百地丹波守が多くの下忍たちと住んでいた砦跡。忍者が修業した丸型池と呼ばれる堀跡が残されています。

天正伊賀の乱

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藤堂采女

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【写真 上野市西連寺にある墓】

『寛政重修諸家譜』によると藤堂采女元則は服部半蔵正成とは同族の予野生まれ。

その後紀州土豪保田氏の保護を受け、藤堂高虎が今治に居た時代より高虎に仕え、慶安4年(1640)に上野の城代家老を世襲する藤堂采女家を興し七千石を与えられている。

采女家が城代職になり藤堂姓を許されたのは伊賀地侍の名族服部家の出自故、伊賀地侍達の懐柔の目的であったと云われる。

『伊賀付差出帳』には、元則、元住は伊賀全土の郷士を調べ登録し、鉄砲組や忍び衆等の組を作った。藤堂采女故郷碑は服部半蔵故郷碑、伊賀乱供養碑と共に予野の千賀地城址にある。

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伊賀四十九院

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【写真 弥勒寺廃寺】

『伊水温故』によると田守とも称した。木津川支流久米川下流の地にあり、行基が聖武天皇の勅を奉じ諸国に四十九院を創建しその一院が当地に建てられ四十九院村と呼ばれる。

伊賀は大和と共に現世仏教が布教れた地であり、その土台になったのが伊賀四十九院であった。弥勒菩薩を本尊とし平安朝の中頃から山伏達が兵法、武術、忍術を教える学塾になった。生み出した第一号の山伏兵法習得者は藤原千方と云う。

弥勒寺は四十九院の一つであったが天正伊賀乱で兵火を経て明治40年(1907)に廃寺となった。しかし今も乳授けの祈願者が多い。

中世の土豪として増田氏、中森氏、知高氏の城跡が残っている。明治5年(1872)に弥勒寺は廃寺となる。

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服部持法

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【写真 服部氏館跡】

南伊賀黒田の悪党大江氏と並び、北伊賀には服部惣家、名誉大悪党張本と呼ばれた服部右衛門太郎入道持法の館跡がある。

『三国地志』に「服部氏宅址按、平内左衛門家長、初此に地着すと云」とある。

荘園名主の武士化が進み、東大寺の荘園支配に武力で反抗する勢力を悪党と呼んだ。東大寺はこの悪党を鎮圧するように鎌倉幕府や六波羅探題に再三訴えた。しかし鎌倉幕府御家人服部持法は消極的であった。

『東大寺文書』によると、嘉暦2年(1327)には時の守護仁木太郎義覚と高畠右衛門太郎入道持法自身が山田有丸荘に乱入し御家人より悪党に転化する。

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服部半蔵

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【写真 千賀地城址の服部半蔵と藤堂采女生誕地の碑】

三大上忍の一人。服部半蔵は伊賀忍者の代名詞であるが、半蔵保長は上野の予野の旧名を姓として千賀地半三保長ともいう。

半蔵正成は保長の子で、早くから伊賀を出て家康に仕えた伊賀忍者の頭領として有名である。

天正10年(1582)の神君伊賀越では、半蔵正成は伊賀者200人と供に家康を助けたとある。その後、八千石の旗本となり与力30騎、伊賀同心200人の頭領として活躍し世に鬼半蔵と呼ばれた。

『寛政重修譜家緒』に、「三河国西郡宇土城夜討の時正成16才にして伊賀の忍びの者6,70人を率い城内に忍び込み戦功を励ます」とある。忍術秘伝書『忍秘伝』は、初代服部半蔵保長が著して、正成に授けたと伝わる。

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花垣の八重桜

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【写真 花垣神社の芭蕉句碑】

服部一族氏神。服部半蔵(千賀地半蔵)家は紀州保田庄の豪族の出で当地の服部家を継いだ。興福寺領であり古来より八重桜が本当に美しく花垣郷と呼ばれた。

予野は『沙石集』巻九の「芳心アル人ノ事」の段に著名な起源伝承がみえる。この花垣の桜があまりにも綺麗であったので、上東門院彰子が寺の別当に運ばせようとした時、大衆が憤慨し法螺貝を吹いたりし別当を追放せよと騒いだ。

そしてその風流心に感じた彰子は花を守る宿直を置いた伝わる。今なお神社すぐ近くに「花守」姓の方が住んでおられる。

また松尾芭蕉はこの地を元禄3年(1690)に訪れた時、「一里(ひとさと)はみな花守の子孫かや」と詠んだ。

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鍵屋の辻

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【写真 数馬茶屋】

越鍵屋の辻の決闘は、寛永11年(1634)、現伊賀市荒木馬苦労町、鍵屋の辻で起こった。

事の起こりは、寛永7年(1630)、岡山藩主池田忠勝の小姓であった渡辺数馬の弟、源太夫が、同僚の河合又五郎に斬り殺されたことにある。数馬は義理の兄である荒木又右衛門に助太刀してもらい復讐を遂げた。

又右衛門は伊賀荒木で出生。しかも、忍者の名門服部一族の出自だ。荒木には又右衛門生誕の碑があり、そこの看板に又右衛門の幼名が丑之助と記される。

名から判断しても、生まれたときから体が相当大きかったようだ。荒木又右衛門と名乗って所持した刀「法橋藤原来金道作」の長さは83.5cmある。所持する者を推測すれば身長は180cmを越える。

小回りがきかなければならない忍者には適さないので剣術家となったという説にはうなずいてしまう。

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無量寿福寺

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伊賀国惣国一揆の12人の評定衆が評定を開いた場所の一つです。第一次天正伊賀の乱の際、伊賀衆はここを拠点に丸山城の織田勢を攻めました。

天正伊賀の乱

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丸山城跡

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第一次天正伊賀の乱の舞台となった城。織田信雄による丸山城築城を知った伊賀衆がこれを攻撃し、撃退しました。

天正伊賀の乱

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忍町

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【写真 忍町の武家屋敷】

今なお”忍”の名が残る上野市三之町筋南側には、かつて藤堂藩伊賀者の屋敷があった。『宗国史』には雑色廠とある。

寛永(1624〜1643)や寛文(1661〜1672)頃の絵図には、三之町筋の南の道が外馬場と記され、その中央部南側の重臣の下屋敷一軒分足らずの地域に伊賀者10人ほどの名(黒岩安右ヱ門、服部七右衛門等)が、記されており、その一部に伊賀者屋敷があった。

伊賀者は参勤交代での江戸詰と伊賀詰めの2班に常時分けられ、忍町は伊賀詰め伊賀者の居住地であった。

しかし、伊賀者屋敷は享保頃(1716〜1735)の絵図にはもはや見あたらず、中期以後は加判奉行の役宅、安政5年(1776)以後は普請奉行宅に詰めたと思われる。

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敢国神社

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忍術名人・瀬登八右衛門が、祭礼の日に、ある男から腰の刀を盗み取るという賭けをしたところ、替え玉を使って岩の上で休んでいると見せかけて、老婆に変装して近づき、見事刀を盗み取ったという逸話が『萬川集海』に残されています。

天正伊賀の乱

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名張藤堂家邸

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【写真 名張藤堂家邸】

天正伊賀乱の後、簗瀬村の現丸の内が城下町として発展。慶長13年(1608)藤堂高虎・家臣梅原勝右衛門が名張に赴任。寛永13年(1636)藤堂高吉が伊予から名張城主になる。

名張藤堂家が支配するが、実情は家臣格で独自の行政は行えなかった。大火で全焼したが大名屋敷を再建。現在、寿栄神社にある太鼓門が当時のまま。

名張陣屋町として丸之内、中町、上本町、柳原町、鍛冶町、本町、新町、元町、豊後町、木屋町、榊町、松崎町、上八町、東町がある。

旧細川邸は、薬商細川家(奈良県宇陀市大宇陀)の分家として建てられる。細川家は樟脳を扱っていた。樟脳は『萬川集海』の火術としても使われていた。

上野城下に忍町があったわけで名張にも伊賀者は在住しただろう。薬に関わる忍者や名張藤堂家を監視していた忍者が考えられる。

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永福寺

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【写真 永福寺】

全国にいくつか「伊賀町」がある。滋賀県彦根市にも、昭和47年まで「伊賀町」があった。現在は錦町になっている。

慶長19年(1614)大坂冬の陣で、彦根藩士三浦右衛門元貞は伊賀者を特別隊として真田幸村の大坂城真田丸に奇襲攻撃。これが大成功する。井伊直孝は元貞に感状を与えた。

しかし、伊賀者には、その活躍に見合う論功行賞を与えなかった。そのため、伊賀に帰還する伊賀者が続出した。忍者なしでは戦えない。そこで、元貞はわざわざ名張下比奈知にある永福寺に赴き、彼らを説得しに行った。

給与をアップ、土地を譲与。新たに長福寺を創建し、永福寺僧、能賢を初代住職に迎え、本尊薬師如来も設置する。

これで気をよくした伊賀者は彦根に移住する。ただ、なぜ永福寺に伊賀者と大きく関わっていたのであろうか。この寺は伊賀者のアジトであった可能性がある。

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