神戸ノ小南

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【写真 神戸神社】

『萬川集海』に列挙された11人の忍術名人の1人。南伊賀では唯一の忍者であった。

文献としては菊岡如幻の『伊賀国忍術秘伝』、明和年間の岸勝明の『伊賀考』にも神戸の子南の名があるが活躍の記録としては文献にその名を探すことが出来ない。

『伊乱記』によると、神戸は戦国末に伊賀の土豪達が「漸く神戸の郷、天童山に集まり、各々評定して和談を調へ」と有り、上野の平楽寺とならび伊賀衆達の評定所の一つが神戸にあったので伊賀の土豪が集まっていた重要地であった。

また、神戸神社には今なお宮座が九座あり、それらの座は戦国時代より郷士が中心となって地域の指導的役割を果たしていたと考えられ、忍術名人の神戸の子南がいたのも納得がいく。

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上野ノ左

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【写真】

『萬川集海』に登場する11人の忍術名人の忍者。菊岡如幻が著した『伊賀国忍術秘法』の冒頭に『萬川集海』と同じく忍者の勇士として11人の名があり、「上野ニ左兵衛、高場氏、是に子細在り」とある。

上野は室町期より名がある。『伊乱記』には天正伊賀乱で比自山籠城勢揃の中に上野村の高場氏(馬場氏と記す写本もあり)の名があり、上野村では上野氏と並ぶ土豪であったことがわかる。

伊賀惣国一揆評定衆12名は、仁木義視を最後の伊賀の守護として迎え、上野平楽寺に殿館を造ったとある。

しかし、仁木氏も室町時代は先代の仁木太郎義覚が悪党化し服部氏らと共に東大寺領荘園を侵したこともあり、ある意味では忍者であったのであろう。

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式部塚

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百地丹波守と恋愛関係になったため、嫉妬に狂った本妻に殺された女性を弔った塚。この女性が式部の官職にあったため式部塚と呼ばれ、はさみを供えると夫や恋人との悪縁が切れるといわれています。

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百地砦跡

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百地丹波守が多くの下忍たちと住んでいた砦跡。忍者が修業した丸型池と呼ばれる堀跡が残されています。

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天正伊賀の乱

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藤堂采女

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【写真 上野市西連寺にある墓】

『寛政重修諸家譜』によると藤堂采女元則は服部半蔵正成とは同族の予野生まれ。

その後紀州土豪保田氏の保護を受け、藤堂高虎が今治に居た時代より高虎に仕え、慶安4年(1640)に上野の城代家老を世襲する藤堂采女家を興し七千石を与えられている。

采女家が城代職になり藤堂姓を許されたのは伊賀地侍の名族服部家の出自故、伊賀地侍達の懐柔の目的であったと云われる。

『伊賀付差出帳』には、元則、元住は伊賀全土の郷士を調べ登録し、鉄砲組や忍び衆等の組を作った。藤堂采女故郷碑は服部半蔵故郷碑、伊賀乱供養碑と共に予野の千賀地城址にある。

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伊賀四十九院

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【写真 弥勒寺廃寺】

『伊水温故』によると田守とも称した。木津川支流久米川下流の地にあり、行基が聖武天皇の勅を奉じ諸国に四十九院を創建しその一院が当地に建てられ四十九院村と呼ばれる。

伊賀は大和と共に現世仏教が布教れた地であり、その土台になったのが伊賀四十九院であった。弥勒菩薩を本尊とし平安朝の中頃から山伏達が兵法、武術、忍術を教える学塾になった。生み出した第一号の山伏兵法習得者は藤原千方と云う。

弥勒寺は四十九院の一つであったが天正伊賀乱で兵火を経て明治40年(1907)に廃寺となった。しかし今も乳授けの祈願者が多い。

中世の土豪として増田氏、中森氏、知高氏の城跡が残っている。明治5年(1872)に弥勒寺は廃寺となる。

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服部持法

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【写真 服部氏館跡】

南伊賀黒田の悪党大江氏と並び、北伊賀には服部惣家、名誉大悪党張本と呼ばれた服部右衛門太郎入道持法の館跡がある。

『三国地志』に「服部氏宅址按、平内左衛門家長、初此に地着すと云」とある。

荘園名主の武士化が進み、東大寺の荘園支配に武力で反抗する勢力を悪党と呼んだ。東大寺はこの悪党を鎮圧するように鎌倉幕府や六波羅探題に再三訴えた。しかし鎌倉幕府御家人服部持法は消極的であった。

『東大寺文書』によると、嘉暦2年(1327)には時の守護仁木太郎義覚と高畠右衛門太郎入道持法自身が山田有丸荘に乱入し御家人より悪党に転化する。

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服部半蔵

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【写真 千賀地城址の服部半蔵と藤堂采女生誕地の碑】

三大上忍の一人。服部半蔵は伊賀忍者の代名詞であるが、半蔵保長は上野の予野の旧名を姓として千賀地半三保長ともいう。

半蔵正成は保長の子で、早くから伊賀を出て家康に仕えた伊賀忍者の頭領として有名である。

天正10年(1582)の神君伊賀越では、半蔵正成は伊賀者200人と供に家康を助けたとある。その後、八千石の旗本となり与力30騎、伊賀同心200人の頭領として活躍し世に鬼半蔵と呼ばれた。

『寛政重修譜家緒』に、「三河国西郡宇土城夜討の時正成16才にして伊賀の忍びの者6,70人を率い城内に忍び込み戦功を励ます」とある。忍術秘伝書『忍秘伝』は、初代服部半蔵保長が著して、正成に授けたと伝わる。

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花垣の八重桜

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【写真 花垣神社の芭蕉句碑】

服部一族氏神。服部半蔵(千賀地半蔵)家は紀州保田庄の豪族の出で当地の服部家を継いだ。興福寺領であり古来より八重桜が本当に美しく花垣郷と呼ばれた。

予野は『沙石集』巻九の「芳心アル人ノ事」の段に著名な起源伝承がみえる。この花垣の桜があまりにも綺麗であったので、上東門院彰子が寺の別当に運ばせようとした時、大衆が憤慨し法螺貝を吹いたりし別当を追放せよと騒いだ。

そしてその風流心に感じた彰子は花を守る宿直を置いた伝わる。今なお神社すぐ近くに「花守」姓の方が住んでおられる。

また松尾芭蕉はこの地を元禄3年(1690)に訪れた時、「一里(ひとさと)はみな花守の子孫かや」と詠んだ。

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鍵屋の辻

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【写真 数馬茶屋】

越鍵屋の辻の決闘は、寛永11年(1634)、現伊賀市荒木馬苦労町、鍵屋の辻で起こった。

事の起こりは、寛永7年(1630)、岡山藩主池田忠勝の小姓であった渡辺数馬の弟、源太夫が、同僚の河合又五郎に斬り殺されたことにある。数馬は義理の兄である荒木又右衛門に助太刀してもらい復讐を遂げた。

又右衛門は伊賀荒木で出生。しかも、忍者の名門服部一族の出自だ。荒木には又右衛門生誕の碑があり、そこの看板に又右衛門の幼名が丑之助と記される。

名から判断しても、生まれたときから体が相当大きかったようだ。荒木又右衛門と名乗って所持した刀「法橋藤原来金道作」の長さは83.5cmある。所持する者を推測すれば身長は180cmを越える。

小回りがきかなければならない忍者には適さないので剣術家となったという説にはうなずいてしまう。

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無量寿福寺

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伊賀国惣国一揆の12人の評定衆が評定を開いた場所の一つです。第一次天正伊賀の乱の際、伊賀衆はここを拠点に丸山城の織田勢を攻めました。

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天正伊賀の乱

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丸山城跡

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第一次天正伊賀の乱の舞台となった城。織田信雄による丸山城築城を知った伊賀衆がこれを攻撃し、撃退しました。

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天正伊賀の乱

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忍町

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【写真 忍町の武家屋敷】

今なお”忍”の名が残る上野市三之町筋南側には、かつて藤堂藩伊賀者の屋敷があった。『宗国史』には雑色廠とある。

寛永(1624〜1643)や寛文(1661〜1672)頃の絵図には、三之町筋の南の道が外馬場と記され、その中央部南側の重臣の下屋敷一軒分足らずの地域に伊賀者10人ほどの名(黒岩安右ヱ門、服部七右衛門等)が、記されており、その一部に伊賀者屋敷があった。

伊賀者は参勤交代での江戸詰と伊賀詰めの2班に常時分けられ、忍町は伊賀詰め伊賀者の居住地であった。

しかし、伊賀者屋敷は享保頃(1716〜1735)の絵図にはもはや見あたらず、中期以後は加判奉行の役宅、安政5年(1776)以後は普請奉行宅に詰めたと思われる。

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敢国神社

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忍術名人・瀬登八右衛門が、祭礼の日に、ある男から腰の刀を盗み取るという賭けをしたところ、替え玉を使って岩の上で休んでいると見せかけて、老婆に変装して近づき、見事刀を盗み取ったという逸話が『萬川集海』に残されています。

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天正伊賀の乱

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名張藤堂家邸

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【写真 名張藤堂家邸】

天正伊賀乱の後、簗瀬村の現丸の内が城下町として発展。慶長13年(1608)藤堂高虎・家臣梅原勝右衛門が名張に赴任。寛永13年(1636)藤堂高吉が伊予から名張城主になる。

名張藤堂家が支配するが、実情は家臣格で独自の行政は行えなかった。大火で全焼したが大名屋敷を再建。現在、寿栄神社にある太鼓門が当時のまま。

名張陣屋町として丸之内、中町、上本町、柳原町、鍛冶町、本町、新町、元町、豊後町、木屋町、榊町、松崎町、上八町、東町がある。

旧細川邸は、薬商細川家(奈良県宇陀市大宇陀)の分家として建てられる。細川家は樟脳を扱っていた。樟脳は『萬川集海』の火術としても使われていた。

上野城下に忍町があったわけで名張にも伊賀者は在住しただろう。薬に関わる忍者や名張藤堂家を監視していた忍者が考えられる。

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永福寺

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【写真 永福寺】

全国にいくつか「伊賀町」がある。滋賀県彦根市にも、昭和47年まで「伊賀町」があった。現在は錦町になっている。

慶長19年(1614)大坂冬の陣で、彦根藩士三浦右衛門元貞は伊賀者を特別隊として真田幸村の大坂城真田丸に奇襲攻撃。これが大成功する。井伊直孝は元貞に感状を与えた。

しかし、伊賀者には、その活躍に見合う論功行賞を与えなかった。そのため、伊賀に帰還する伊賀者が続出した。忍者なしでは戦えない。そこで、元貞はわざわざ名張下比奈知にある永福寺に赴き、彼らを説得しに行った。

給与をアップ、土地を譲与。新たに長福寺を創建し、永福寺僧、能賢を初代住職に迎え、本尊薬師如来も設置する。

これで気をよくした伊賀者は彦根に移住する。ただ、なぜ永福寺に伊賀者と大きく関わっていたのであろうか。この寺は伊賀者のアジトであった可能性がある。

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青蓮寺村

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【写真 青蓮寺城】

『東大寺文書』に、青蓮寺は11世紀より現れる。鎌倉末期、「黒田庄悪党交名注文」に、黒田悪党の一味であった青蓮寺孫五郎静蓮、滝野七郎、名誉の悪党といわれた青蓮寺八郎らの大江一族がここに勢力をはっていた。

地形的には南東部は急崖で青蓮寺川に臨み、南は山で大和国に繋がる。二つの谷の水は西に流れ、合流して釜石川となり宇陀川に注ぐ。つまり、自然の要塞といっていいだろう。

古墳も多く、伊勢平氏が隠れた伝説もある。俗称ヘゲヤシキ(平家屋敷)や入道谷の子字がある。戦いに敗れた武者が潜む地が多い。

戦国期、青蓮寺城が作られる。地蔵院の北裏にあり青木城とも呼ばれるが、元は青蓮寺一族の城だろう。四方の土塁の幅が広く、東・北・西の三方に空堀が有り深い。

『伊乱記』で、柏原合戦のときに、青蓮寺新兵衛の名が見える。

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杉谷神社

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御祭神は主祭神の天之穂日命(アメノホヒノミコト)と、菅原道真公他10柱で、黒田の悪党・大江氏の氏神です。

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滝之原八人衆

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【写真 八幡神社】

滝ノ原八幡神社で行われる祭礼は「若子祭」「おまと」とも呼ばれる。歩射の神事が古くから伝わる。

祭日は1月9日。血盟の杯・歩射・神前式・祝座からなる悪霊退散を祈る神事が古来のしきたりにより行われる。

注目されるのは古来より定まった八人衆の存在。滝ノ原の地は平家の落武者伝説、北畠の残党が身を隠したとの伝えがある。

平氏にかかわる傍証としては、下出不動寺の近くにアマコウゼン山と称される雑木林がある。尼御前墓が訛ったものだろう。中腹には古びた石塔が祀られ、付近一帯を女王堂ともいう。池禅尼との由縁を伝える。滝之原は池尼禅の所領であったっという。

『吾妻鏡』に、池尼禅は平忠盛の後妻で、清盛の継母になる。平氏没落後も禅尼の所領は安堵されたとある。

すなわち、この八人衆が戦国時代、北畠派に属する滝之原の伊賀衆と考えるのは想像にあまりある。

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柏原城跡

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第二次天正伊賀の乱で伊賀衆の残存勢力が集結し、最後に立て籠った城。石垣で固めた土塁と深い空堀を巡らした強固な城でしたが、織田勢の最初の攻撃でほぼ壊滅し、降伏しました。

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天正伊賀の乱

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