下山城

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【写真 下山甲斐守城】

地元では、兼前(カマエ)の城山という。滝之原の西、夏見の東に位置する。下比奈知は昔から土地争いがよく起こった地。

ここに下山甲斐守城は兼前の城山と呼ばれる。東西150m南北130m。東南隅に見張り台、本郭は四方に土塁を巡らし周囲に空堀。

『勢州軍記』には、下山甲斐は伊賀守護の仁木氏が滅びた後、伊賀を支配した66人衆の1人で、伊勢国司北畠氏の旗頭だった

。天正4年(1576)北畠具教を謀殺し伊勢の実権を手中に収めた北畠信雄は、同7年伊賀に侵入。下山甲斐は信雄勢に味方するように勧められたが、これを拒否し獄中で舌を噛み切り自ら命を絶ったという。

『伊乱記』に、信雄が伊賀攻略を決断したのは下山甲斐が手引きしたとあるが、同9年、織田勢伊賀侵略に対し土豪として種生国見山に籠城して戦っている。

裏切り者なら、伊賀勢にはつかなかったが、伊賀勢として戦うわけで『伊乱記』の記述は矛盾しているのではないだろうか。

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夏焼太夫

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【写真 灯籠】

名張北部黒田に夏秋という集落がある。地元では「ナッチャケ」と呼ぶのは夏焼と呼んでいた名残と考えられる。夏焼は夏の作物が日焼けする土地の事。

『東大寺文書』によれば黒田の悪党大江貞房は夏焼兵衛尉と呼ばれた。

永久元年(1113)夜中に天皇家御物がある蘭林坊に夏焼太夫と神仁一味が忍び込み孔を開けて御物を盗んだ。左衛門志明兼が追跡し桂川付近で合戦し夏焼は松尾山に逃れ明兼の郎党は傷ついた。

『長秋記』に京に戻った宿で検非違使平忠守が犯人を追捕した。夏焼は手下を訓練させていたので侍達と互角に戦えたのだろう。

戦後になり、名張川より、夏焼神社にあった灯籠の一部が発見される。

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弥勒寺

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鎌倉時代から室町時代に作られ、木造で162cmの伊賀で最も古くて大きい役行者像があります。他にも国指定重要文化財で、平安時代に作られた木造聖観音立像や、木造十一面観音立像も収蔵されています。

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加納神社

美旗新田にある、『日本書紀』には、この辺り一帯は皇室の狩猟所ないし薬草採集地の禁野とある。

江戸時代、ここで新田開発を提案したのが、加納藤左衛門直盛。直盛の父は藤堂髙虎に仕え朝鮮役や関ヶ原、大坂陣に活躍。その跡を継ぎ直盛は伊賀加判奉行として1800石を有し「伊賀者」を創設した人物だ。

一方、美旗新田開発は直盛の最も大きな功績であったが、完成直前に死去。息子直堅が引き継ぎ、美旗新田を完成。

ところが、延宝8年(1680)年、伊賀で銅山事件という大事件が起こる。その責任を取らされ直堅が切腹することになる。

加納神社は享保16年(1731)に、新田村開発恩人加納直盛の遺徳を顕彰するために創建。村民の内心は表向きは直盛を祀るが、不遇の死を遂げた、直堅の霊を祀る心に、より傾斜していたのは想像にあまりある。

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極楽寺

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【写真 極楽寺】

鎌倉時代に道観という長者が一ノ井に住んでいた。道観は赤目の九か村を支配し栄華を極める。しかし、没落し奥山里香落渓に移り住む。

やがて、自分の不徳を悔い改め、東大寺二月堂の再建に寄与。道観遺言により松明調進が始まった。

この頃に悪党が出現する。中でも南伊賀の悪党、黒田の悪党と呼ばれ有名だ。伊賀忍者の原形になる。ゲリラ的戦術が巧妙で、いくら弾圧されても次々に現れる。活動期間も長く、対処に東大寺は手をやいた。

しかし、赤目の悪党たちも、松明調進ついては、荘園時代から続く行事で、強制されたもでなく、松明調進には従ったという。まともに戦えば明らかに不利である。

悪党は最低限の生きるためのとき、東大寺と戦う。それ以上は望まなった。だからこそ、東大寺という最大の寺院に、しぶとく数百年にもわたり対峙できたのだろう。生きるための忍者的哲学だと思う。

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北畠城

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【写真 北畠城】

奈垣と神屋の境界にあたる、通称城山と呼ばれる中世城館跡。伊勢国司滅亡の際に、北畠一族の再興を計って築かれた北畠具親の城跡である。

山の丘頂には本丸と思われる大地、北には館があったと思われる二の丸、空堀を隔てた南には土塁が取り巻き、山全体が城として利用されている。

『三国地志』や『勢陽雑記』に、次のような記述が記されている。天正4年(1576)に、北畠具親の弟具教が、北畠(織田)信雄の家臣が具親を謀殺し、さらには一族や旧臣も殺害する悲報を知る。具教は奈垣吉原氏を頼った。そこで、北畠家再興を目指す。

北畠家旧臣や恩顧の土豪は、呼応して伊勢各地で兵を挙げるが、所詮は多勢無勢で悉く敗れてしましう。戦国時代、南伊賀の勢力のほとんどは北畠氏に属していたと考えられる。

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黒田庄

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【写真 黒田庄遠景】

黒田庄は東大寺支配板蠅杣に始まった、南伊賀大半を占めた古代、中世の大荘園。弘安年間(1278〜1288)、黒田荘は東大寺配に反抗勢力の拠点であった。彼らを黒田の悪党と呼ぶ。

悪は「悪者」でなく「強者」という意味。黒田の悪党は黒田荘下司大江氏であった。北伊賀の悪党と共に東大寺に従わず強力な地侍の連合体として成長していき戦術集団として組織化された忍びの原型が見られる。ゲリラ戦を得意とした。

東大寺は再三再四足利幕府に悪党鎮圧を要請したが成功せず、南北朝の時代には黒田の悪党は南朝側につき、その際河内の大悪党楠木正成も呼応して挙兵しており、やがて荘園体制が崩壊してゆき悪党は地侍、国人となり、その中の何人かが忍者と呼ばれる傭兵と考えられ、その傭兵を抱えた国人衆が織田信長に対抗するために「伊賀惣国一揆」を結成することになっていく。

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観阿弥創座の地

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【写真 観阿弥像】

楠木正成が悪党として足利尊氏を悩ませたのことは有名だ。忍術秘伝書に楠木正成が忍者の始祖と記される。

『上島家観世系図』が伊賀で近年発見された。正成の妹か姉が観阿弥の母親にあたるという。「母河内国玉櫛庄橘入道正遠女」と記される。

橘入道正遠は楠木正成の父、正遠女が嫁いだ相手は伊賀有力御家人服部姓をつぐ浅宇田荘元成。その後観阿弥は長谷の猿楽師の元に預けられ座を立てる。

「観阿弥が座を立てた後、故あって母の素性を明さなかった。」とある。これは観阿弥が足利に対立していた楠木正成の甥であるのを隠すため。忍びと猿楽芸能民との関係は深い。

猿楽などの職能集団は各地を転々としたので諜報活動にはもってこいの職業で各地の情報入手は容易だった。「七方出」という忍者が変装する形態の一つが猿楽師だった。

ところで観阿弥が創座した地が、名張小波田であったという。伊賀と観阿弥との関係が深いことから、伊賀が創座の地と言っていいだろう。

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百地丹波守三太夫生

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【写真 百地三太夫石碑】

三大上忍の一人『賊禁秘誠談』によると百地三太夫は天下の大泥棒石川五右衛門の師匠で有名であったが、三太夫の名は史実的には見出せない。

『伊乱記』に、天正伊賀乱に参加した百地は百地新之丞、同太郎左衛門、喰代百地丹波となっている。

しかし、三太夫がまったくの創作だと言えない説もある。竜口が伊賀猿楽の本拠地で白山神社の棟札には十人の太夫衆の名があり”太夫”の名が多かったからだ。

竜口は伊賀と大和があり、双方一族共黒田の悪党で有名な大江一族であり、戦国期に有力な地侍であった百地氏が竜口を南北にまたぐ城山に砦を構え、南伊賀一帯を支配していた。

現在は「伊賀まちがと博物館」に登録され、予約を入れれば見学できる。

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延寿院

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役行者が開いたとされる寺。天正伊賀の乱の際、織田勢に焼かれましたが、今から約400年前に復興されました。その際に植えられたシダレザクラが毎年きれいな花を咲かせます。

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赤目四十八滝

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【写真 不動滝】

名張川支流滝川の上流にある。かつて赤目滝は黄滝あるいは阿弥陀滝と呼ばれていた。

永治2年(1142)『東大寺文書伊賀黄滝寺西蓮勧進状案』に黄滝の名が見える。役行者の行跡地とされ、修験者が参集する霊場として存在を知られていた。

また鎌倉時代には四十九滝の名称もあった。『三国地志』に見える「阿弥陀滝」の名もその事を示している。

最近では司馬遼太郎原作篠田監督の伊賀忍者の映画『梟の城』で伊賀唯一の現地撮影された場所である。

文久3年(1863)名張の儒者鎌田梁洲が『観瀑図誌』で一般にその景勝を紹介し、広く代に知られるようになった。

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国見山

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【写真 吉田兼好石碑】

川上・老川地区の南に位置する。東北部を川上川、西部を前深瀬川が北流。霧生、高尾に抜ける道があるが、大部分は山地。

『伊勢国司諸司系図』によると、戦国時代には、北畠氏の家臣に、種生往社寺奉行の小岳周防守の名がある。種生神社にある、永正2年(1505)の棟札には、この地の豪士と考えられる泉、小竹、松尾氏など20名の名が連ねる。

『三国地志』には、「小嶽周防堡並宅址・松尾氏堡・泉氏堡」と記される。中でも小竹氏城は種生神社西にあり、東西160m南北70mの規模を持つ。

天正伊賀乱の際には、織田信長軍の攻撃で、国見山に逃げ込み籠城し抵抗するが落城したと伝わる。種生草蒿寺跡を含む周辺を国見山と呼ぶ。

この地には特筆すべき事がある、『徒然草』で有名な、吉田兼好が晩年この地に隠棲し没したとの伝承がある。

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霧生城

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【写真 霧生城】

「きりゅう」と読む。伊賀は霧がよく発生する。忍者と霧は切り離すことは出来ない。「遁甲」には霧は欠かせないのだ。

霧生は伊勢国との境にあり特に霧がよく発生したのでこう呼ばれた。

初見は東大寺が朝廷に黒田悪党追捕を訴えた弘安5(1282)年『東大寺衆徒等申状案』に「・・伊賀国黒田坂山賊、当国霧生之夜討等・・」とある。

戦国期には伊勢北畠諸侍城館が霧生、諸木、種生、高尾の山間部に集中していた。

『伊勢国司諸侍役付』に、霧生城主伊賀口之鎮の福山出雲守。同城代伊賀国加番の福山越後守。同加番従騎の刈谷左衛門亮、伝五郎、丸山城主丸山半蔵とある。

天正伊賀乱では伊勢地口で戦った南伊賀衆は北畠氏残存勢力である福山氏、結城氏等の歴戦の郷士達が信長軍に果敢に立ち向った。

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滝半九郎

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【写真 竜泉仙寺】

藤堂藩伊賀者に滝半九郎という忍者がいた。

寛永13年(1636)、「伊賀付差出し帳」末尾の「忍衆廿人名寄」に、切米拾八石四人扶持・滝半九郎の名が記される。寛永・寛文期の上野城下町絵図の忍町に屋敷がある。

地名どおり滝には見応えがある滝がいくつかある。滝地域北部は旧大山田村坂下(さかげ)に接する。坂下に源を発する上津川が、滝集落西部を流れる。

滝家近くにある滝仙寺寺伝には、天正7年(1579)、第一次天正伊賀乱の際に、滝三河保義という勇敢な郷士がいた。織田信雄が国境を攻め入ろうとすると、迎撃の軍を率い、敵将柘植三郎左衛門尉の首を討ち取った。

しかし、戦況に利無く保義は討死。2年後の第二次天正伊賀乱で、信雄軍勢が攻め入り討ち滅ぼされる。本能寺の変後に、阿弥陀如来像、大威徳明王画像などを滝村に持ち帰り滝仙寺を開いたという。

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藤原千方

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【写真 千方窟】

地元では「千方将軍」の伝説がある。『太平記』によると、平安の頃、藤原千方という者が4匹の鬼を使って謀反をおこし、朝廷側を苦しめた。

それぞれの鬼は、射ても矢の立たない「金鬼」、大風を吹いて敵城を吹き飛ばす「風鬼」、大水を流し敵兵を一人残らず押し流してしまう「水鬼」、そして、姿を隠して敵を潰した「隠形鬼」である。

鬼達の行動はまさしく忍術を使ったと考えられ、伊賀忍者のはしりだった。

しかし、鬼達を征伐に行った紀朝雄が「草も木も我が大君の国なればいづくか鬼の棲なるべし」という歌を詠むと、鬼達はたちまちのうち逃げ去り、千方も降伏したと伝わる。

なお、この千方伝説は、当地だけでなく、青山町東部の霧生、白山まで古くから流布している。

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菊岡如幻

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【写真 菊岡如幻生誕家の石碑】

菊岡如幻は寛永2年(1615)に生まれるが、出自は清和源氏頼政の流れをくみ島ヶ原菊岡村より起こる。本名捨松、随性軒とも称した。

如幻は伊賀上野で質商を営む裕福な商家を継ぐ一方、学問を好み北村季吟に師事し和歌をよくした。文筆家として、延宝7年(1679)の天正伊賀乱の悲劇を伝えた『伊乱記』は、伊賀衆と織田信長との戦いを描いた傑作であろう。

他にも、荒木又右衛門仇討ちの実録『殺法法輪記』、伊賀の地誌『伊水温故』、民話を集めた『茅栗草子』、そして150巻にのぼる大著『世諺一統』などの著書がある。

特筆されることは、如幻は『伊賀国忍術秘法』『伊賀忍者考』という忍者について記述した本も書いている。そう意味では初代伊賀忍術研究家と言えるであろう。

墓所は上野市九品寺にあり、戒名は菊岡如幻らしく法號夢如幻居士となっている。

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島ヶ原行者堂

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役行者を大峯山から勧請して作られた堂。自然石の窟の中に石刻の役行者と不動明王が祀られています。行者堂から小山川を挟んだ東側には、南北朝時代から室町時代に制作されたと推定される阿弥陀崖仏があります。

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観菩提寺正月堂

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東大寺の別院として建立されたといわれ、源頼政の家来・渡辺競の末裔を称した島ヶ原党の象徴。島ヶ原党は、第二次天正伊賀の乱の際、伊賀衆の一員として参戦しますが、正月堂を守るために降伏しました。

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天正伊賀の乱

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島ヶ原党

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【写真 善福寺】

島ヶ原党は源頼政家来の渡辺競一族の後裔と称し「三星下一文字紋」の家紋を同じくした。

元弘元年(1331)に笠置山合戦で後醍醐天皇側として参戦した。その際に下賜された菊紋陣幕と太刀は島ヶ原党の象徴として保存されたと云う。

『太平記』に、「追っ手の木戸、西の坂口は伊賀伊勢の兵千余騎に堅めたり」という伊賀節の中心は地理的にも島ヶ原r党であったことは、考えられるだろう。

長享元年(1487)の伊賀・甲賀の忍者が活躍した鈎の陣にも、島ヶ原党も伊賀衆の一員として参戦した。

『勢州軍紀』や『小川新九郎聞書』には、天正10年(1582)、本能寺の変で信長が倒れると、伊賀地侍衆は蜂起したが、この時鎮圧に向かった織田勢は島ヶ原党の激しい抵抗にあい深追いを避け兵を引き上げたとある。

これを第3次天正伊賀乱とも呼ぶ。

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永井城

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【写真 出後公園より見える永井城跡】

出後には比較的大きい規模の城跡が多く残っている。永井城跡は出後から喰代へ通じる道左手の丘の頂にある。

『三国地志』には城主は永井内膳とあり、城には見張り台が残る。

『伊乱記』によると、天正7年(1579)の阿波口の合戦に内膳は参戦している。また内膳は喰代の三大上忍の一人百地氏に属する忍者で、同じく喰代の田中民部と共に名うての忍者と云われた。

『統集懐録』には藤堂藩伊賀者として子孫の永井又兵衛と田中安丞は仕え、さらに鳥目付としても安政5年(1858)『庁事類編』には、伊賀者の永井又兵衛と田中逸八郎の名が見える。

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